奇跡 《3》


佐伯は受話器を置くと、ため息をついた。
木島靖男も真代まりあも、結局はつかまらなかった。
事情は話したので、帰り次第連絡はつくだろうが、二人が病院に行くのは明日になるだろう。
佐伯は、理得の手帳をパラパラとめくってみた。
几帳面な字で、色々と書いてあるが、仕事のことだけでなにぶん変わったところもない。
佐伯の手が止まった。
3月20日の日付けのところに、「MY BIRTHDAY」と書いてあるを見て、佐伯は理得の言葉を思い出していた。
「いいセンいっています、佐伯さんの推理、私29です、惜しかったですね」
ついこの間、そう言っていた理得が、まさか30歳の誕生日にこんな事になるなんて・・・。
俺に何か出来なかったのか?
手帳を閉じた佐伯は静まり返った部屋の中で、唇をかみしめた。

霊安室の中は、凍えるようだった。
佑子は、どうしても自分の目で確かめたくて、佐伯と別れてから、ここに来たのだ。
男の脇腹を確認すると、あの傷があった。
そうか、あの男はこんな顔をしてたんだ。
今となってはどうすることもできないが、佑子は静かに眠るユ−リに向かって言った。
「こんな事になるなら、あの時助けるんじゃなかった・・、理得を返してよ・・」
持っていきようのない怒りが、佑子の口から力無く出たが、それはただ冷たい床に吸い込まれていくだけだった。

佑子は病院で夜を明かすと、理得の様子を見に行ったが、状況に変わりはなかった。
相変わらず意識は戻らないまま、眠り続ける理得。
名前を呼んでみるが、反応はない。
ガラス越しに、様子を見ている看護婦に、容体が変わったらすぐに知らせてくれるように言い残すと、佑子は本来の仕事に戻った。

午前の外来が済んで、もうじきお昼になる頃、まりあと靖男が佑子の診察室のドアを叩いた。
「はい」
佑子の声と共に、ドアを開けた二人の顔は憔悴しきっていた。
まりあは、佑子の顔を見ると、涙をため、佑子に駆け寄って、抱きついた。
「佑子先生、・・・・」
そう言ってしゃくり上げるまりあを、佑子は片手で抱きしめながら、ドアの前で立つ靖男に軽く会釈した。

「この度はどうも・・、まりあがお世話になったと思ったら、今度は理得まで・・、先生にはお世話になりっぱなしで・・」
そう言って、靖男は深々と頭を下げた。
「もっと早く来れたのですが、まりあが1人じゃ嫌だと言うものですから、待ち合わせて来ました。で、理得はどうですか?」
靖男の淡々とした言葉に、父親としての覚悟を感じた佑子は、友人としてではなく、医者として答えを見つけていた。
「理得は、心臓をライフルで撃たれました。手術は成功しましたが、まだ生死の境をさまよっています。そして、・・お腹には赤ちゃんがいます」
「赤ん坊ですか?」
佑子の言葉に、靖男も泣いていたまりあも驚きの表情を隠せないでいた。
「そうですか・・」
しばらくして、そう靖男が口にするまで、3人は3人とも、胸の中で何かを考えているようだった。
「ともかく、理得の所に行きましょう、まだガラス越しでしか会えませんけど、詳しい話はその後で・・・」
佑子は二人を促すと、理得の眠っている部屋に向かって歩き出した。

「理得」
「お姉ちゃん」
集中治療室で眠る理得の顔を見ると、思わず二人は声をかけた。
思ったよりもきれいな顔をしている理得を見て、靖男は何故か安堵していた。
ただ、おびただしい数のチュ−ブにつながれ、酸素マスクをしている姿は、やはり痛々しい。
「意識はないんですか・・・」
理得の顔を見ながら、靖男は尋ねた。
「ええ、眠ったままです、このまま、眠り続けるかも知れません・・」
佑子は、ふっとこのまま眠り続ける方が、理得には幸せなのではと思って、思わず口に出してしまった。
しかし、言ってしまった後に後悔が襲ってきた。
やはり、もう一度理得と会いたい。
「きっと、大丈夫です。理得は悪運が強いんです。必ず、戻ってきます」
ガラス越しに見つめる二人に、佑子は自分も励ますようにそう言った。

自分の診察室に戻った佑子は、靖男とまりあに昨日佐伯から聞いた話をかいつまんで話した。
ただ、ユ−リがこの病院の霊安室に眠っていることは、伏せておいた。
これ以上、二人の気持ちを荒だたせたくはなかった。
二人とも、理得が巻き込まれている事件のことは知っていたので、冷静に佑子の話を聞いていた。
「もっと詳しいことは、警察の方で教えて頂けると思います」
「分かりました・・・、どうもありがとうございました」
靖男は佑子に礼を言うと、一度会社に顔を出すために帰っていった。
まりあも、家の様子を見に行くために、一度帰ることにした。
「お姉ちゃんをよろしく・・・」
まりあの悲しげな声が、佑子の耳にいつまでも残っていた。

玄関を開けると、理得の匂いがふっと、まりあの周りを包むような気がした。
母親が死んでから、いつもこの家で自分を待っていてくれた姉がいるのが、当たり前だったのに、今はその存在がない。
まりあにとって、理得は姉であり、甘えられる母親だったのに・・・、こんなに大事な存在だったのに・・・、理得の笑顔がまりあの脳裏に浮かんでは消えていく。
「お姉ちゃん・・・、ごめんね」
涙は枯れることがないのだろうか?まりあの頬にまた溢れていく。
まりあがソファ−に座って、テ−ブルに鞄を置くと、携帯の着信メロディが、ずかずかとまりあの心に入ってくる。
しばらくして、まりあはやっと、電話にでた。
「もしもし・・・」
「まりあ、俺だよ、どうだった姉ちゃんの様子は・・・」
「うん、成次、まだ意識が戻らない、危ないんだって・・・」
「そうか、まりあ大丈夫か・・、俺も行ってやりたいんだけど、たまに帰ったものだから、お袋がうるさくて、しばらくしたら行くからさぁ、辛抱してくれよ」
「うん、・・大丈夫。お父さんも、佑子先生もいるし」
「ところで、あの家さぁ、姉ちゃん死んだらお前のもんだよなぁ?」
「えっ・・、そんな縁起でもないこと言わないで、成次何考えてるのよ!」
「いや、もしもって事も考えなきゃさぁ、俺も男だし・・・、ともかくまた電話入れるから・・」
そう言うと、成次はさっさと電話を切ってしまった。
まりあは、もう何も考えたくなかった。
今はただ、神様に祈りたかった。

空港に早々と宵闇が迫ろうとしている頃、佐伯は金網越しに飛行機を見ていた。
ユ−リを乗せた車は、先程到着して、全ての準備を終えたウラノフと共にユ−ラルに向かう所だった。
飛行機は静かに滑走路を進んでいく。
「ユ−リ・マロエフ、お前は何処に行くんだ・・」
視界からだんだん消えていく飛行機を見ながら、佐伯はそう呟いていた。