奇跡 《4》
「失礼しますよ」
神崎がそう言って、診療前の佑子の診察室に入ってきたのは、3月も終わりに近い頃だった。
「神崎先生、おはようございます。何かありましたか?」
佑子は、見ていた書類から顔を上げて、神崎を見た。
「いえ、彼女は大丈夫です。意識は戻っていませんが、呼吸も自発呼吸できるようになりましたし、脈拍も血圧も安定しています。もう個室に移しても大丈夫でしょう」
「そうですか、安心しました」
「いや、生命力の強いお友達だ。あとは、意識がいつ戻るのか・・。それと、お腹の赤ちゃんはどうですか?」
「今のところ大丈夫です。でも、発育は少し遅れている感じがします」
「そうですか、ところで・・・」
そこまで言った神崎の言葉が、急に止まったので、佑子はちょっと嫌な気がした。
「実は、色々調べて思ったんですが、彼女がこのまま妊娠を続けると、心臓に負担がかかって、母体の方が危なくなるんじゃないかと思いまして・・」
佑子は、申し訳なさそうに言う神崎から、一度窓に視線を移すと、しばらく考えて、再び神崎を見た。
「やはり、そうですか・・・、私もそう思います。あの体では出産自体も無理だと思っていました」
「理得の命を助けるには、子供を諦めてもらうしかない・・・、このまま意識が戻らなければ、ご家族にお話して、相談しなければならないでしょう」
佑子はそう言った後、どうにも出来ない現実に、目を背けられない立場の自分が悲しくて、やりきれなかった。
「あまり、遅くなっても処置が大変ですから、4月に入って、桜が咲く頃には、私からご家族に話します」
「そうですか、そうしていただけると、助かります。石橋先生も辛いと思いますが、よろしくお願いします」
神崎がそう言って出ていくと、佑子は窓の所に立って、外にある桜の木を見た。
もう、つぼみはできている。
これが咲くのはいつだろう・・・、永遠にその時が来なければいいのに。
いつもは待ちどうしい春が、今は来て欲しくない春が、もうすぐそこまで来ていた。
理得が個室に移ってから、まりあは少し嬉しそうだった。
これからは、いつも理得の側にいて、その手を取って、話しかけて、髪を梳いてあげることもできる。
理得がまだ集中治療室にいるときは、なかなか側にもいられず、家にいても、時々訪れる刑事に事件の事を尋ねられたり、成次の思いやりのない電話に出たりしなければならなかった。
靖男も気にはかけているのだろうが、現実から逃げる気持ちが強いのか、まりあに電話で様子を聞くだけで、最近は顔を出さない日も多い。
理得はまるで眠り姫だ。
いったい誰が起こすのだろうか。
「まりあちゃん、なるべく名前を呼んだりして、普通に話しかけてあげてね。もしかしたら、聞こえているかも知れないから・・・」
「えっ、そうなんですか?、聞こえているかも知れないんだ・・。そうか、佑子先生きっとお姉ちゃん、目が覚めるよね」
「うん、きっと・・」
そう言うと、佑子は理得の耳元で、歌うように口ずさんだ。
「理得、理得、早く目を覚まさないと、もうすぐ桜が咲くよ・・、あなたの好きだった桜の花が・・、一緒にまた見ようよ・・・、いっしょに」
「そうだよ、そうだよ、お姉ちゃん、もう春だよ、もう起きる時間だよ」
今度はまりあが同じ様な節で、歌った。
そうしていると、真ん中にいる理得もまるで微笑んでいるように見える。
でも、まりあはまだ、佑子がどんな気持ちで、この歌を歌っているのかは知らないでいた。
佑子は、理得にちゃんと説明してから、子供のことを決めたかった。
ちゃんと理得の目を見て話さなければ、決められないことでもあった。
でも、もう時間がない。
理得起きて、早く、佑子は心の中で叫んでいた。
それから何日かして、まりあは病院の庭にあった桜の木から、もうすぐ咲きそうな枝を一本もらうと、理得の枕元の花瓶に生けた。
病室内の暖房のせいか、その日の内につぼみは開いて、淡いピンクの花が匂いと共に部屋に溢れた。
佑子が様子を見に部屋にはいると、そこだけはもう春だった。
「あら、きれい。もう咲いてるのね」
「この部屋が暖かいから、咲いちゃったんだけど、暖かすぎて、すぐに散っちゃうかな・・」
まりあが、散ると言った瞬間、佑子の脳裏に、闇に消えていく赤ちゃんの姿が浮かんだ。
「どうかしたの?佑子先生」
まりあも、佑子の様子が変なのを感じたらしい。
「あっ、いえ、なんでもないのよ・・・、ねえ、まりあちゃん、今週の週末お父さん来るかしら?」
「う〜ん、どうかな?何か用事でもあるの?今度電話があったら、言っておくけど」
まりあがそう言うと、佑子は理得の顔を見ながら、医者として言った。
「そうね、週末いらしてくれるように言っておいてちょうだい。あっ、まりあちゃんもいっしょにね。ちょっとお話したい事があるから・・」
「ふ〜ん。分かりました、言っておきます」
まりあは、無邪気にそう答えた。
それから週末までの何日間か、佑子は時間の許す限り、理得の側で、名前を呼んだり、手をさすったりした。
「理得、お願いよ、起きて」
佑子の祈りは続く。
約束の週末が来た。
診察室に靖男とまりあの二人を呼ぶと、佑子は満開の桜の花を見ながら、話を始めた。
「実は、理得は今の状況では、妊娠に絶えられません」
「・・・絶えられない?ってどういう意味ですか・・」
「このまま妊娠の状態が続けば、理得の傷ついた心臓は圧迫されて、母体の命に関わります」
「それは・・・、死ぬって事ですか?」
靖男は恐々聞いてみた。
「残念ながら、そうです」
佑子の声で、まりあは泣き出した。
「では、どうすれば、いいんですか・・」
「赤ちゃんを諦めてもらうしか今のところ手だてはありません。あまり負担がかからない内に処置をしないと・・・、それで、目が覚めない理得に変わって、ご家族の承諾を頂きたくて、今日お呼びしたんです」
「それは・・・」
そう言ったきり、靖男はだまってしまった。
あんな姿で眠る理得を、どうしてこれ以上傷つけなければならないのか。
「少し時間をもらえますか、理得と相談します」
靖男はやっとそう言うと、泣きじゃくるまりあの肩を抱いて、出ていった。
佑子は二人を見送ることもなく、窓の外を見ながら、頬に伝う涙を拭えないでいた。
「理得、命の天使ガブリエルからとった名前のお前から、小さな命を取らなければならないなんて・・・、お前、この名前好きだって言ってくれたよな・・・、理得、聞いているか・・」
「お姉ちゃん、可哀相に、あたしの赤ちゃんが出来たときにあんなに喜んで、待ち望んでいてくれたのに、それが、だめだなんて・・・」
まりあは、自分のお腹の中の子供が、だめになったときに、大粒の涙をこぼしていた理得を思っていた。
確かに、だめになった原因は理得にあったかも知れない、でもあの日、柔らかな羽を見たとき、何かがまりあの中で変わるのを感じていた。
人を許す気持ちが、生まれたのだ。
だから、理得のお腹の中の子供がたとえ誰の子供であっても、まりあは許せる気がした。
だから、理得の手にその命を抱かせてあげたかった。
でも、もうその希望はないのだ。
「理得、許してくれ」
靖男は眠る理得の頬を撫でながら、呟いていた。
承諾書を手にした佑子は、まりあの待つ病室に、手術の日を伝えに行った。
「明日、手術をしますから、お父さんに連絡しておいてね」
「明日?ずいぶん早いんですね」
「母体のことを考えると、一日でも早いほうがいいの」
佑子は眠る理得を見て、そっと言った。
「理得、ごめんね。あなたの命を救う方が大事なの・・・、許してくれるよね」
「理得・・・」
佑子の目から涙がこぼれて、理得の頬に落ちた。
その時、ゆっくりと理得の目が開いた。
その瞳は佑子を見て、次にまりあを追った。
そして微かに微笑むとまた眠ってしまった。
「理得!」
佑子が叫ぶと、理得の閉じた瞼から、涙が一筋流れて落ちた。
佑子の耳には理得の声が聞こえていた。
「佑子、呼んでくれてありがとう・・、何度も呼んでくれてありがとう・・」
信じられない様子の二人が見守る中、眠り姫はもうすぐ眠りから覚めようとしていた。