未来 《1》
「あの声は…」
佐伯は声のする方に顔を向けた。
そして、次の瞬間、声に向かって走りだした。
雪に足を取られ、何度もよろけそうになる。
が、それでも佐伯は走る事を止めなかった。
もう悲劇はまっぴらだ。
佐伯は走りながら、過去を脳裏に浮かべていた。
爆破されたビルで泣く自分。
目の前で息絶える両親。
対峙したユーリ・マロエフの悲哀に満ちた瞳。
銃声と共に崩れ落ちる姿。
生き残った理得の涙。
拓麻を失った、まりあの悲鳴。
そして、理得の死。
佐伯は荒い息をしながら、白い大地を見据えていた。
「須藤っーー!!」
再びそう叫んでみる。
だが、今度は返事が無い。
佐伯は深く息を吸い、目を閉じた。
そして、ゆっくりと息を吐き出すと、見開いた目で天を仰いだ。
佐伯はしばらくそうしていたが、再び白い大地を見渡すと、声を張り上げた。
「須藤龍…、いや、もう加納リュウと呼んだ方がいいのかな。
君は探し当てたんだね、過去を…
実は僕は夏にこの地を訪れた時、偶然あの墓標を見つけたんだ。
日本語の字で書かれた加納倫子という字を見たとき、僕はとても強いショックを受けてね、それで密かに素性を探してた。
だから、本当に驚いたんだ、君の手紙に書かれた文字を見て…
それからもう一つ。
僕は手紙を読んで、心に引っかかった事柄も調べた。
こんな職業だから、そんな事は調べようとすればわけがない。
それが悲しくもあったが、でも真実を知らなければここに来られない、そう思ったからちゃんと調べたよ。
君が今、その事をどう思っているのかは察しがつく。
だが…
君は大事な事を見落としている。
君のお母さんは愛を生き抜いたじゃないか、最後まで、君を愛し、君の父を愛し、この地で死んだとはいえ、ちゃんと前を向いて愛に生きたんだ。
あの墓標が証だったんだ、僕は…」
そこまで話したとき、白一色の大地の一所がゆらりと動き、黒い塊が起きあがった。
「佐伯さん、あんたは何も分かってない!」
その黒い塊は、仁王のような顔でこちらを見ている。
「よかったよ、また君に逢えて…」
佐伯は龍を認めると、安堵の表情を浮かべた。
「佐伯さん、あんたは何も分かってない!」
そんな佐伯の心情などお構いなしに、龍はもう一度繰り返した。
「母が愛に生きたって?そんなことあるもんか!母はきっと邪魔者扱いされて殺されたんだ、オヤジにね!」
龍は興奮状態にいた。
「もうちょっと、側に来ないか、大声を出しすぎて喉が痛いんだ…」
佐伯はその雰囲気をなんとか変えようとする。
だが、龍はその場を動こうとしない。
しょうがなく、佐伯は重い足を引きずるようにして龍に近づいた。
そして努めて静かな口調で話を切り出した。
「この国に僕はツテがあるんだ、ユーリ・マロエフの一件でね。
だから、あの墓標が君の母親と知ってから、いろいろと調べてもらったんだ、ビクトル・マロエフとの関係も含めて。
少しだが、警察の方に記録が残っていたよ。
君の母親は国境を無理に越えようとして、警備隊に撃たれたそうだ。
パスポートから日本人だと分かり、持っていた手紙でビクトル・マロエフが呼ばれた。
通常なら引き取れない遺体を、彼が無理を通して引き取りこの墓地に埋葬した。
ここまでは記録に残っていた。
留学まで許された身だ、よほど国家から期待されていたのだろう。
だからこそ、許された特権だったのかもしれない。
それが君の母親に出来た最後の事だった。
この国は今でこそ平和だが、君の母親がこの地を訪れた頃は、隣国と冷戦状態が続き、治安も最悪だった。
警備隊に撃たれてもしょうがない状況だったと言えると思う」
龍は黙ったまま佐伯の話を聞いている。
「こうは考えられないだろうか?
君の父親は祖国に戻り、国の情勢を見て絶望した。
そして、叶えられない愛を待たないようにと君の母親に手紙を出した。
それは精一杯の愛だったのではないだろうか?」
「愛…だって…、その結末がこれでもか…」
「…確かに誤算はあったと思う。君の母親が来るとは思わなかったのだろう。だがそれは誤算だ、悪意ではない」
「悪意が無ければいいって言うのか?お袋は恨みながら死んだんだ。愛を恨みながら…」
「君は墓標を見ただろう…、あの日本語の文字を、あれを君の父親がどういう気持で彫ったか、考えてみろ。
きっと釘か針金だ、そんな物しかなかったんだと思う。
少しずつ…少しずつ…
自分を責めながら…
そこに愛がない訳がないじゃないか。
ロケットを見て、君の存在にも気が付いたかもしれない。
だが、それを確かめる術もなく、地中に埋めるしかなかった気持を分かってやれないか…」
佐伯は龍に向かいながら、自分の口から出る言葉に不思議な感覚を覚えた。
テロによって両親を殺され、ストイックに生きてきた自分ではない自分が喋っている言葉。
病院でみせた理得の慈愛に満ちた表情が浮ぶ。
無駄ではなかったのだと佐伯は思った。
理得に出逢った事も、ユーリ・マロエフに出逢った事も…
なにもかもが無駄ではなかった…