未来 《3》


…人を思って悩み、道を選べ…未来のために…

理得の笑顔、泣き顔、苦悩する顔、それらがひとつになり、凛とした顔になって、僕を見る。

あの灯りは何だろうか?
シルバーの輝き、オイルライター?
持っていたのは誰だったろう…

瞼の裏でそうした思考が浮かんでは消えてゆく。
暗い瞼の裏の残像。
それは夢なのかもしれないが、生きている証でもあった。

僕はそれをボーっとした中で認識した。
そして、意志を持って、大きな息を1つすると、ゆっくりと目を開けた。

そう、ずっと手を握っていてくれた、その人を見る為に…

すると間もなく、大きな声が聞こえた。
手を握っていてくれた人が僕を見て、廊下に出たようだ…。

あの人は見覚えがある。
ずっと昔から一緒にいた、懐かしい声。

次に来たのは看護婦だろうか、大柄な女性がニコニコしながら、僕を見ている。
その女性は点滴の落ち具合をチェックすると、出て行く前にもう1人の女性を抱きしめた。
彼女は泣いていた。

「もう、大丈夫よ、龍、今、先生を呼んできてくれるって…」
涙を手の甲で払うと、彼女はそう言った。

「よかった、佐伯さんの帰国に間に合って…、すぐ連絡しなきゃね」
彼女は忙しそうに席を立とうとした。
が、その手を僕は掴んだ。

「楓…」
それは探していた言葉だった。

「なぜ?」
僕には状況が見えなかった。

「龍、ここは病院よ、ユーラルのね。佐伯さんがあなたをここに運んでくれたの」
「君は?」
僕はまだ朦朧としていた。

「ビザの発給がなかなか下りなくて、日本で待っていたんだけど、佐伯さんからの連絡で、私、大使館に掛け合ったのよ。で、なんとか特別に早くしてもらったの」
「僕の事は…」
龍は更に質問しようとしたが、その声を楓は遮った。

「もう喋らないのよ、龍、あなた医者だったんでしょう。だったら、この状況で何が一番大事か分かるわよね。だからもう、喋らないで」
楓は龍を見つめていた。
子供を守る母親のような目で。
「先生に見てもらったら、もうちょっと眠りましょうね。私がずっとここにいるから…」

その声は精神安定剤よりも効いたかもしれない。
僕は医者の診察待って、それからもう一度、今度は深い眠りに落ちた。

再び目が覚めたときも、窓の外には相変わらず雪が降っていた。
病院の中は施設が整っているとは言い難いが、それでも暖かく、生きていると実感するのには十分だった。

夕方になると夜の便で帰国するという佐伯刑事は、身なりを整え、少しの荷物を持って僕の病室に現れた。
「君を死なせる事だけは出来ないよ、君のお母さんと真代さんに怒られてしまう…」
彼は穏やかな顔でそう言った。

「楓さんは今だからこそこんな顔してるが、ここに到着したときはまるで楓さんが死ぬんじゃないかと思うほど青い顔してた。胃洗浄が早かったので、命に別状はないと連絡しておいたのにね…」
「そんな事言いますけど、佐伯さん。あの時は頭の中真っ白で、自分の目で確認するまでは気が気じゃなかったんです」
2人はまるで昔からの知り合いのように喋っていた。

その様子から、楓が佐伯刑事から何もかも聞かされたのだと僕は分かった。
僕が日本に置き去りにした花嫁。
裏切られた事への悲しみ、知らなかった事への怒り、楓はそういった物をいったいどこに閉まってしまったのか…。
その欠片も今の楓には無い。

「じゃあ、後は楓さん付いていてあげて下さい。僕は休暇も終わったので、仕事に戻ります」
そう言われて楓は佐伯刑事に向かって頭を下げていた。

「気が向いたら、メールでも下さい」
それは僕に向けられた言葉だった。

ごく普通にそう言うと、ロケットを僕に手渡し、彼は病室を出て行った。
もう、何も言うことはない、後は自分で考えろ…彼の背中はそう言っていた。

「何も言わないんだね…」
僕は楓と2人きりになるとそう切り出した。

「もう、いいのよ。あなたが今、こうして生きて私の側にいるだけで…」
楓の顔は、慈愛に満ちていた。
それは、生きていた理得がいつも見せていたのと同じものだった。

「あなたが居なくなってから、私、沢山の事を知ったのよ、沢山ありすぎて頭の中に上手く納められない程だった…。
ショックだったし、情けなくもあった。
自分の罪深さも知ってしまった。

でも、佐伯さんからの連絡であなたが睡眠薬を飲んだって聞いたら、過去の記憶だった事柄は全部消えたの…。
今度は自分の意志で記憶を消した事になるわね。
2度も過去を無くしたら、もう恐い物なんて何も無かった。
そして飛行機に乗ってたわ、後先なんか考えずに。

そして最初にあなたを見たとき思ったの…、私は今のあなたの為に存在するって。
この時の為に、私の今がある。
それは過去も含めて全部が導いてくれた結果。

あなたがどう思うかは別だけど、私はあなたを愛して、見守るわ。
邪魔ならば、側にいなくてもいいの。
両親の元に戻って、ちゃんと娘としてやっていく。

私ね、これで、やっとあなたと同じ場所に立つことが出来た気がする。
だから、ここにいる間だけは世話をさせてね」

楓はいつの間にか、僕よりずっと大人になっていた。
彼女は運命を受け入れ、そしてそれを乗り越えた強さを身につけていた。
その透明な楓は、風のように僕の中を駆けめぐり、がんじがらめの僕を少しずつ解きほぐした。

そのおかげで僕の体調は順調に回復し、2週間後には病院内を歩けるまでになっていた。

そうやって見ると、病院内の状態も目に付きだした。
医者は絶対数が足りなく、特に外科の技術は目を覆いたくなるほど酷かった。
日本では傷跡をなるべく残さないように首の皺に添って切開する手術も、耳の下から顎全体まで切り開き行う事で、醜い傷跡として残してしまっていた。
若い女の子の耳の下から首に残る大きな傷を見るたびに、僕は怒りにも似た気持ちを抱いた。
でも、ここにはそれを教えてくれる医者もおらず、それ故、技術の進歩も望めないでいたのだ。

「僕は日本には帰らない」
退院が近づいたある日、僕は楓にそう告げた。

そう言ってから、楓の怪訝そうな視線に気が付いた僕は
「でも、もう死ぬつもりはないから…」
と付け足した。

「この国には医者も技術も足りない。だから僕はこの地に残る。僕は一度死んだ身だ、そう思ったら楽になった。だから残る」
「それだけ?」
「…」
「この国に残る理由はそれだけ?」
その事を咎めるでもなく、淡々と聞く楓の声が、かえって僕の返事を鈍らせた。

「…それだけ…とは言えない…」
僕は目で見ていない遠くを見ながら、やっとそれだけ声にして返した。