輪廻 《1》
「今日は早いですね」
まりあは地下鉄の階段を上りきって、一息ついた所で声をかけられた。
振り返ってみると、そこにはいつも花を買う店の店員が立っていた。
「今からお店行くの?今日は遅いのね・・」
「ちょっと昨日飲み過ぎて、寝坊しちゃったんで・・」
そう言って頭をかいて、すがすがしく笑う青年を見てまりあもつられて笑った。
坂口というその青年と店先で話すようになったのはつい最近だったが、彼の人なつっこい笑顔と暖かな雰囲気、そしていつもおまけしてくれる事で、まりあの中にはいい印象が残っていた。
「今日はお花いらないんですか?」
「あっ、うん、昨日お見舞いに来てくれた人が持ってきてくれたから、今日はいいの」
「なんだ、残念だなぁ」
坂口はそう言うと手を振りながら駆けていった。
まりあは歩きながら自分がウキウキしていることに気が付いた。
今まで理得に反発して、理得の嫌いなタイプばかりと付き合っていた自分が不思議だった。
理得が入院してから、父や佑子先生に頼りにされ、理得が目覚めてからはよりいっそう自分のすべきことがはっきりして、生き甲斐みたいな物を感じていた。
前の自分なら、今会った坂口みたいな男性に笑いかける事などしなかったはずだと、まりあは思っていた。
エレベ−タ−に乗り、ナ−スセンタ−の前を通ると、まりあは看護婦に呼び止められた。
「石橋先生が朝一番で診察室に来て欲しいと言ってました」
まりあは今来た廊下を戻ると、佑子の待つ診察室に向かった。
患者が待つ待合室を通り過ぎ、診察の順番を告げる看護婦にまりあは耳打ちして、名前を呼ばれるのを待った。
「真代さん、どうぞ」
「はい」
まりあは指定されたドアを開けて、佑子と顔を合わせた。
「ああ、まりあちゃん・・とりあえずそこに座って」
まりあは佑子の示した椅子に座ると、カバンを膝の上に乗せた。
「お父さんにはさっき連絡したんだけど、・・・お父さんは理得の事よく分かっていたみたいで、何もおっしゃらなかった」
「佑子先生、何のことですか?」
「ああ、そうね、ごめん、説明がまだだったわね」
「実は昨日の夜、理得に赤ちゃんの事説明したの、このままじゃ理得の命に関わるって・・」
「そしたらなんて言ったんですか、お姉ちゃん」
まりあは佑子の答えが待ちきれないようだった。
「産むって・・」
佑子はそう言うとため息をついた。
「やっぱりそうですか」
少しの間をおいて、まりあは答えた。
佑子もまりあも多くは語らず、まりあは佑子に、ともかくそのことを頭に入れて理得に接して欲しいとだけ言われて、診察室を後にした。
廊下を歩きながら、まりあはどんな顔を姉に見せたらいいのか考えてしまった。
説得してみようか?
でも自分だったらどうだろう・・。
ついこの間子供を亡くしたまりあには、理得の母親としての気持ちはわかる。
しかし子供を守る事は、まりあにとって姉を失うことでもあるのだ。
「どうしよう」
まりあの気持ちは揺れていた。
「お姉ちゃん」
まりあは普段と変わらずに理得の待つ部屋に入った。
理得は少し微笑んだだけで、何も言わなかった。
「どうしたの?元気ないじゃん」
まりあは明るい声でそう言うと、締め切りだった窓を開けた。
4月にしては暖かな風が部屋の中に入ってくると、それだけで気分が軽くなるようだった。
「お姉ちゃんが決めたことでしょ・・・、あたしは応援するよ」
まりあは自分の口から出た言葉に驚いていた。
何も考えず、ただ、今、姉の顔を見てそう言ってしまっていた。
「頑張ろうよ、お姉ちゃん。まだ全部が全部ダメって決まったことでもないし、運がいいお姉ちゃんの事だもの、案外子供産んでも平気のへっちゃらで、たくましいお母さんになるかもしれないじゃない」
まりあは喋りながらだんだん本当にそんな気がしてきた。
「だからいっぱい食べて、体丈夫にしなくちゃ・・そうでしょ」
そこまで言うとまりあの声のト−ンが少し変わった。
「お姉ちゃんの気持ち少し分かる様な気がするんだ・・、なんかあたし最近変なの・・、生きるってなんだろう?とか、愛するってどんな意味があるんだろう?とか、思うときがあるんだ」
「お姉ちゃんはなぜあの人を好きになったの?普通は止めるよ、あんな素性もわからなくて、危ない人・・」
「あっ、あたしが言っても全然だめだね。成次もそのまんまだった・・」
まりあはアハハっと笑った。
理得はじっとまりあの話を聞いていたが、ベットの下から写真を取り出すと、それをまりあに渡した。
「これって・・」
まりあは渡された写真をじっと見つめると、一度だけ見たことのある男の顔を見つけた。
「この人・・ユ−リって人だよね」
「この服は軍隊の人みたいだけど・・」
「みんな・・死んだの・・」
理得の言葉にまりあは驚いて写真からを持つ手を下ろし、理得の顔を見た。
「どうして、子供もいるよ」
「ユ−リは・・、そうゆう・・国で・・育ったの・・」
「国に殺されたの?」
「お母さん・・と・・子供は・・」
「じゃあ、このお父さんともう1人の男の人は?」
「ユ−リ・・が・・殺した・・」
「・・・」
まりあはもう一度写真を見た。
家族を亡くした人だって事は聞いたことがあったが、まさか全員が亡くなっていたなんて思っても見なかった。
そう言えば前に理得から質問されたことがあった事をまりあは思い出した。
「帰ってきて、家ががらんどうになっていたら、どんな気がする?・・家族を守ろうと思って必死で闘って、帰ってきたら家に誰もいなかったら・・・・。みんな、死んじゃってたら」
理得のせっぱ詰まった質問に自分がどんなにひどい答えをしたのか思い出すと、まりあは知らなかったとはいえ心が痛んだ。
「ユ−リ・・の、・・側に・・いて・・あげ・・られる・・のは、・・もう・・私・・しか・・いな・・かった・・」
「守って・・あげた・・かった・・」
「優しくて・・・暖かい・・人・・だった・・のに・・、国の・・貧しさ・・が・・彼を・・追い・・つめて・・、みんな・・奪って・・しまった・・」
「だから・・・この子・・は・・産み・・たい・・・」
「ユ−リ・・の・・分も・・幸せ・・に・・なって・・ほしい・・」
そこまで言うと理得は目を閉じた。
「同情とは違うの?」
理得は首を振った。
「理屈・・じゃ・・ない・・」
「計算・・でも・・、損・・得・・でも・・ない・・」
「ユ−リ・・と・・未来・・を・・見つめた・・時・・、幸せ・・だった・・、二人で・・生きて・・いける・・未来が・・あること・・が・・、嬉し・・かった・・」
「一緒・・に・・いられる・・こと・・だけで・・よかった・・」
「なのに・・」
理得は後の言葉を続ける事が出来なかった。
「お姉ちゃん、いっぱい喋らせてゴメン、また今度聞かせて・・、今日はもう止めよう」
まりあは慌てて理得の布団を直して、目にたまった涙を拭った。
「きっと大丈夫だよ、ちゃんと産めるよ、あたしがついてるし、あたしとお姉ちゃんと赤ちゃんの3人で生きていける。・・きっと未来があるよ」
理得にはまりあの言葉が嬉しかった。
理得はその晩夢を見た。
ユ−リが立って自分を見ていた。
「ユ−リ」
理得が呼ぶとユ−リはベッドの直ぐ側まで来た。
「私産むわ」
理得がそう言うとユ−リは静かに頷いた。
それを見て理得は安心したように、深い眠りに落ちていった。
「理得、君の思うように生きてくれ、俺は君を自由にしてあげたい・・」
理得は遠くなる意識の中でユ−リの声を聞いていた。
翌朝の理得は落ち着いた穏やかな顔をしていた。
佑子が午後の回診に来ると、理得に新しい外科の先生がつく事を教えてくれた。
心臓の専門医で、先日アメリカから日本に戻ってきたばかりのまだ年若い男性で、きっと理得の力になると佑子も喜んでいた。
「後で挨拶がてら、診察に来る」と言う言葉で、理得も少し緊張していたが、春の午後は穏やかに過ぎていった。
「失礼します」
白衣を着て入ってきた、先生と呼ぶにはまだ若々しいその男性は、理得を見ると会釈をして、ゆっくりと微笑んだ。
その顔を見て理得は驚きを隠せなかった。
「ユ−リ・・」
どこがどう似てると言うわけでもないが、その男の目は確かにユ−リ・マロエフそのものだった。