輪廻 《2》


「須藤 龍」と書かれたネ−ムプレ−トを見つめながら、理得は不思議な感覚の中にいた。
声はユ−リより幾分高めで、しゃべり方もはっきりしている。
体格は同じぐらい、でもユ−リよりも顔立ちは甘い感じがして、全体の雰囲気も柔らかい。
でも、なぜだろう、目を見つめていると、まるでユ−リがそこにいるような錯覚に襲われる。
しかし、幸せな時間はあっという間に過ぎてしまった。

須藤は簡単な挨拶と診察を済ますと理得の病室を出て、その足で佑子の元に向かった。

「どうして彼女を放っておくんですか!」
龍は佑子の診察室に入るなりそう言った。
「ああ、びっくりした。どうしたの須藤君・・、まあそんなにいきり立たないで・・」
佑子は怒ったような顔つきで自分を睨んでいる龍をなだめるように、その肩をポンと叩いた。
「別に放ってあるわけじゃないのよ、まあ事情がいろいろあってね・・、あなたにも追々話さなきゃならないと思うけど、とりあえずあなたの診察の結果を教えてくれないかしら」
「診察の結果は、神崎先生と同じです」
龍はぶっきらぼうに答えた。
「このままじゃ自殺行為だ、あれじゃあとても出産までもたない・・」
「だから私がお願いしたんじゃない、何とか彼女の心臓をもたせてくれって・・・」
「いいですか、石橋先生、医者は神様じゃないんです。出来ないことは出来ません」
「そう・・」
佑子はそう言ってため息をついた。

「彼女は私の親友なの・・、ついこの間まで意識がなくて、やっと目覚めたと思ったら、子供を諦めないと死ぬかも知れないと私に言われて・・、でも彼女『うん』とは言わなかった・・、私もひっしで説得したんだけど・・」
佑子はうつむきがちにそう言った。
「父親は何て言ってるんですか?」
「いないの」
「いない?」
「死んだわ」
「それじゃなおさら、なぜ産もうとするんですか!」
龍は髪に手をやると、2,3回クシャクシャっと髪の毛をかき回した。

「たとえ産まれても、父親もそしてたぶん母親もいない子供になるんですよ・・・、彼女それが分かっているんですか!俺は許せない。そんな子供がどんな気持ちで生きてくか・・・俺は・・」
龍の普通じゃない様子を見て佑子は不思議だった。
そんな佑子に気が付いた龍は、慌てて平静を装うと、佑子の立っている後ろの壁に飾ってある一枚の絵を見ながらまるで自分に言い聞かせるように言った。
「子供は産むだけじゃだめだ、ちゃんと愛されなきゃ・・、親に愛されない子供はどうしたらいい・・、それなら産まれてこない方がいいんだ」
龍が出ていくと佑子は振り向いて、龍の視線の先にあった物を確かめた。
『母親の腕の中で安らかに眠る子供』龍はこの絵の中に何をみていたのだろう・・、佑子は自分の知らない龍の人生を思いめぐらしていた。

「龍、どうしたの?さっきから考え事ばかりして・・・、せっかく日本に帰ってきたんじゃない、もっと楽しそうな顔したら・・」
「ああ、ごめん・・、ちょっと病院で色々あって・・、楓こそ大学の試験だったんだろ、勉強しなくていいのか・・」
「ちょっと付き合ってくれって、呼び出したのは龍じゃない・・・、もう忘れたの・・」
「そうだった、ごめん」
龍はグラスを持つと、残り少なくなったジンを飲み干した。
「だいたい、飲みに行くのに妹呼び出す人も珍しいわよ。他に誰かいい人いないの・・・、結構かっこいいんだから、その気になればいくらだって彼女出来るのに・・」
楓の言葉を苦笑しながら聞いていた龍は、隣に座る血の繋がらない妹の腕をとると、外に連れ出した。

「もうお帰り、俺もマンションに帰るから・・」
タクシ−を停めて楓を座らせると、龍はお金を楓に握らせて、いつもの優しい兄の顔で言った。
「龍も一緒に乗っていけば・・」
「いや、ちょっと歩きたいんだ・・」
楓と別れると、龍は今日会った真代理得の顔を思い出しながら、歩き出した。

『きれいな人だ』最初にそう思った。
『なぜそんな穏やかな顔をしていられる』次にそう思った。
「死ぬのが怖くないのか・・」龍は口に出して言ってみた。
「どうして産むんだ・・」龍は橋の下に流れる水にその言葉を飲み込ませた。
「どうして、僕を産んだんだ」龍の下を向いた顔から、涙が落ちていった。

「お姉ちゃん、なんか嬉しそうだね、いいことあったの・・」
理得は微笑むだけで何も言わなかった。
「あたしね、そろそろ働こうかと思ってるんだけど、いいかなぁ」
「まりあ・・」
「あっ、違うの、その変な仕事じゃなくて、夕方からそうね12時位までのアルバイトしようかと思ってるの・・、朝はゆっくりめにここに来て、お姉ちゃんの側にいて、それから仕事・・なんてどう?」
「・・・」
「だって、自分の食べる分位、自分で稼がなきゃ・・、ここの支払いも少しは手伝えるし、お姉ちゃんの貯金も増えていくわけじゃないんだから」
「大丈夫、無理しないようにやるから・・・、ちょっと心当たりあるから友達にあたってみる」
「心配しないで」
そこまで聞いて理得は頷いた。
まりあをここに縛り付けておくわけにもいかない。
「成次もそのうち戻ると思うけど、もう変な仕事はしないから・・」まりあは最後にそう付け足した。

龍はもう真代理得に会いたくはなかった。
そんな思いとは裏腹に、2日たち、3日たち、一週間が過ぎると、龍は理得の病室の前で足を止めるようになった。
5月に入って、爽やかな風が吹き始めると、龍は佑子の診察室のドアを叩いた。
「石橋先生、ちょっといいですか・・」
「いいわよ、どうしたの須藤先生?珍しいじゃない・・」
龍はおずおずと佑子に真代理得の様子を聞いてみた。

「そうね、お腹の子供はだいぶ標準より小さいわね。丁度意識がなかった分だけ発育が遅れている感じかな・・、つわりが遅れてくれていいんだけど、こればっかりは始まってみないと程度も分からないし・・」
「手伝ってくれる気になったの?」
佑子の問いかけに龍は何も言わず出ていった。
佑子はそんな龍の様子を見て、ふっと微笑んで、やりかけの仕事をするために再びペンを走らせた。

「真代さん、失礼します」
「どうぞ」
理得の声で龍は思い切ってドアを開けた。
「体の調子はどうですか?」
ベットの背もたれを少し斜めにして、そこにもたれるように座っていた理得を見た龍は、その凛とした姿に戸惑いを覚えた。

「もう、夕方ですから、窓は閉めましょう」
龍は夕日が射し込む窓に手をかけると、その夕日の美しさに心惹かれながら窓を閉めた。
そして一呼吸おいて、いつもの自分を取り戻すと、理得と向き合った。

「ご飯はちゃんと食べれますか?」
「はい。まだ堅い物はだめですが、美味しく食べられます」
「言葉もだいぶ滑らかに喋れますね」
「なんとか・・」
「心臓が苦しくなることは・・」
「大丈夫です」
龍はそこまで聞くと、理得の手をとって、自分の手を握らせた。
「力を入れてみて下さい」
理得の手を通して伝わってくる暖かさに、龍は本心をさらけ出したい衝動に駆られた。
「はい、もう力を抜いていいですよ」
それでも龍はにこやかにそう言った。

「今の所、回復状況は順調です。石橋先生の言うことを聞いて、なるべく体力を付けるようにして下さい」
龍はそう言って病室を後にしようとしたが、自分を見つめる理得の目に気が付いて、言葉をかけた。
「どうかしましたか?」
「あっ、いえ、先生の目がとてもきれいだったので、つい見つめてしまって・・」
「そうですか・・、僕の目は父親似だったそうですが、僕はその事を知りません」
「両親はいないんです。育ての親はいますが・・、僕は捨てられたんです」
理得は龍の言葉を聞いて、ユ−リの目となぜ似ていたの分かったような気がした。
運命を恨む目、でもそれだけでもない・・、救いを求める様な、憂いがこもった目。

理得の脳裏に、ユ−リの顔が浮かんで、そしてゆっくりと龍の顔と重なっていった。