聖地 《3》


その声の主は、自分を抱きしめて離さない理得の体を借りてはいるが、中身は自分の母親に違いない。
龍は動転した頭でやっとそう答えを出した。

「お母さん?」
龍は、理得の肩に手を掛けて、体を離し、探るような瞳で理得を見た。
理得は無言のまま、龍を見つめている。
「お母さんでしょ?」
もう一度、龍はもう少し力を入れて声を出した。

理得は迫る龍に戸惑いを覚えながら、それでも龍から視線を逸らさずに少しずつ重い口を開き始めた。
「私は…、私は…もう消えなきゃならないの龍。…だから本当はこうしていちゃいけない。でも…あなたを見たら最後にもう一度、あの別れた時に抱きしめたようにあなたをこの手で感じたかった…」
「消えるって…どうして?やっと会えたんじゃないか?」
「あなたも分かっているでしょ、私はこの世の者ではないの。だからね、限りがあるのよ」
「それは…だって…。でも、いつだ、僕を残していつ死んだ!どうして!…」
龍の見開いた瞳に涙が滲んで、震える唇は続ける言葉を失わせていく。

「龍、ちゃんと生きなさい。前を見て、逃げる事はお母さんが許さない。少なくてもお母さんは前に進んだ、それがあなたに悲しい結果をもたらしてしまったけど…」
「それで、お母さんに悔いはない?僕を残してよかったって言うの?僕がどんな道を歩いて来たか知ってる?僕はずっと愛に飢えて来たんだよ!」
理得は龍の流れ落ちる涙をそっと拭った。

「ごめんなさい。あなたをずっと愛してた。それだけは本当よ…。空の上からずっと見てた。ずっと…ずっと…」
「母さん!」
理得の瞳からポツリと落ちた涙が最後だった。

その瞬間、理得は大きく息を吐き出して、溜まった涙を右手で押さえると、悲しそうな顔をした。
その様子を見て龍は理得の手を取った。
「母さんは何処だ?何処へやった?母さんを出してくれ!」
「もう、私の中にはいないわ」
「嘘だ。まだいるだろう。お前が押し込んだのか?早く出してくれ!」
「戻るべき場所に戻ったのだと思う。前にそう言っていたから…」
「戻るべき場所って何処だ!」
理得は苛立つ龍へ首を横に振った。

「これじゃあ何も分からない。分かったのは母さんがもう生きてないって事だけだ。なんなんだ、それって…。それを知って僕にどうしろって言うんだ。自分は死んだのに生きろって、逃げるなって、そんなのありかよ!」
「お母様だって、死にたくて死んだ訳じゃないと思う」
「偉そうに言うな!そうさ、君だって死んでも愛しい彼が待っているんだ。残された子供の事なんか知っちゃいないんだろ!」
龍の言い放った言葉が余韻を残している間に、理得の右手は教会に響く音を立てて、龍の頬を打ち払った。

「あなたは本当にそう思っているの?!」
龍は叩かれた頬をそのままにしながら、密やかな微笑みを浮かべていた。
その龍の体の中には、自暴自棄の塊が生まれて、行き場を出口を求めて走り出していた。

「理得、君は綺麗だ、内も外もね。生きていれば、理想の母親になっただろうに…。その子供を残して死ぬのは心残りだろ、だから子供も含めて、いっそ皆でここで死んでしまったらどうだろう?心中したいのは実は僕のほうさ。ふふ、君を僕が奪い取って一緒に手を取って奴の前に行くんだ、もちろん君と奴の子供も一緒さ、それを見た奴の顔が見たいよ。さぞ恐い顔してるだろうなぁ…」
理得は龍に握られている手首に痛みを覚えた。
後ずさりする事さえそれは許そうとしない。

「僕は君を抱く事をずっと夢見てた。叶わない夢だと思ってた。でもそれは夢だからさ。実行に移してしまえば案外簡単な事かもしれない、それに僕は気が付いた」
「須藤先生…」
「こんな神聖な場所で君を抱けるなんて、僕は光栄だ。これで君は僕の物、永遠に…」
「止めて下さい。こんな事したって私はあなたの物になんかならない」
「それはどうかな?少なくても奴はそう思わないんじゃないか…理得」
「あなたに辱めを受けるくらいなら私は…」
「どうする?自害するつもり?それは出来ないよなぁ…自分で子供を殺す事になるんだから…」
「止めて…」
「こうして抱きしめて、唇を奪って…」
龍は冷ややかな顔で、そっと唇に触れた。
「それから、こうして君を楽しむ…」
龍はそう言うと理得の両手を持って、壁に押しつけた。

「次の口づけはもっと濃厚だ、妊婦だって感じるんだろ?声を上げたっていいんだぜ…」
「ユーリ」
青ざめた唇は、声にならない声をあげた。

理得は早まる鼓動と浅くなる呼吸に体の力を奪われ、遠のく意識の中に「ずっと一緒にいよう…」そう告げたユーリを見ていた。