終炎 《2》



「ねえ、まりあ、お父さんは今日帰りに寄ってくれないかしら?」
「ああ、お父さんね、さっき連絡したら、お姉ちゃんが目覚めた事すっごく喜んでね、後で来るって言ってたよ」
「そう、良かった、私も会いたかったの…」

「ねえ、まりあ…」
理得が再び話しかけると、花瓶の水を換えてきたばかりのまりあはその手を止めて理得の方を振り返った。
「どうしたのお姉ちゃん?今日目が覚めたばかりなのに、なんだかさっきからあれこれと喋ってばかりで…、疲れると困るからちょっと眠ったら?」
「ううん、いいのよ、疲れたりなんかしていないわ、それよりね、この子の名前なんだけど…」
「名前?」
「悠って名前がいいと思うの」
理得はそう言ってまりあに小さな紙を渡した。

「ふ〜ん、いい名前じゃない、真代悠くんか…あ、でも女の子だったらどうするの?」
「大丈夫、この子は男の子だから…」
「絶対?」
「絶対よ」

「それならいいけど、そうか悠くんか…、悠くん、まりあ叔母ちゃんの声が聞こえますか?」
まりあは理得のお腹に向かって声を掛けた。
「君に会えるのはいつなんだろうね〜」
「そうだ、お姉ちゃん、どうせなら元旦なんてどう?21世紀の最初なんてなんかいいじゃない?」
そう言ったまりあが理得の返事を聞こうと思って顔を上げると、理得は辛そうに顔を歪めていた。

「どうかしたのお姉ちゃん?どこか痛いの?」
「心配いらないわ、まりあ、あなたの呼びかけで悠が出てくる気になっただけよ…」
「えっ、それって…、わぁ〜大変じゃない…」
まりあは急いでナースコールを押した。

看護婦の知らせで駆けつけてきた祐子は、まりあを一旦外に出すと理得の診察を始めた。
「理得、あなた…、どうしてずっと我慢してたの?!」
理得は祐子の顔を見つめるだけで答えようとはしない。

「これじゃあ、もう分娩室に運ばなきゃ…」
祐子は看護婦に指示を出すと、自分も慌ただしく部屋を出て行った。

「まりあちゃん、理得はもう分娩室に運ぶからね、看護婦が来るまでちょっと側にいてあげてくれる?」
「はい」
「ねぇ、痛そうにしたのはさっきが最初なの?」
「あ、はい、私、気が付かなくて…」
「そう…、なぜ理得は言わなかったのかしら?あれじゃ、もうずいぶん前から痛みがあったはずなのに…」
祐子はその事が腑に落ちないとは思ったが、今はそれを気に掛けている暇はなかった。

「じゃあ、お願いね」
そうまりあに言い残すと祐子はきびすを返して龍のいる診察室に向かった。

「すぐに行きます」
祐子が外来の診察中の龍を呼び出して理得の事を伝えると、二つ返事で答えが返ってきた。
「外来はどうするの?」
「吉岡先生に代わってもらいます」
「出来るの?」
「出来なくても代わってもらいます」
「そう、じゃあ、よろしく、先に分娩室に行ってますから…」

龍は祐子を見送ると、看護婦を呼んで診察を一旦中断する指示を出した。
午後の外来はそんなに混み合ってはいない。
それが幸いだった。
吉岡は龍の真剣な眼差しの願いを聞き入れてくれた。

「いよいよか…」
龍は白衣を脱ぐと手術着に着替えた。
心なしか手が震えているような気がするがそんなことはない。
俺が助けなくて誰が理得を助けるんだ。
第一、今日のあの理得の様子から見て、俺の手が必要になることさえないかもしれない。
あんなにも元気で、冬の暖房の効いた部屋で薔薇の花の様に笑っていた理得だ。
きっと元気な子供を産んで、また綺麗な花を咲かせてくれる。

龍は確信していた。
これは自分の犯した罪を神様が謝罪するチャンスを与えてくれた事と。
あんな事があった後だというのに、いつもと変わらず自分に接してくれた理得を自身の手で救うことが罪の償い。
全てがこの時の為。
龍は長くなるだろうこの生誕祭を思った。
「きっと産まれた子供は救いの子になる…、あのキリストの様に…」
龍はそうポツリと言うと大きな息をして分娩室の自動ドアの中に消えていった。
永遠の別れがそこに在るのも知らずに…。