終炎 《3》


「理得、痛みはどう?もう子宮口が全開近くまで開いてるから大変だとは思うけど?」
「うん、祐子、大丈夫…我慢できるわ…」
「なるべく楽に呼吸しててね、心臓はどう?痛みはない?」
「うん、大丈夫、痛みはそんなにないから…」

「真代さん、陣痛と一緒になっていて胸の痛みが分からないんじゃないですか?」
龍が心配そうに聞く。
「須藤先生、大丈夫です。呼吸出来ますから…」
「それでも苦しそうだ…、石橋先生、酸素吸入器つけてもいいですか?」
「いいわよ、須藤先生」

龍は理得の苦しそうな顔がたとえ妊婦のそれであっても、見ているのが辛かった。
理得の口元に酸素マスクをかぶせると、龍は「大丈夫ですよ、頑張って…」と小声で囁いた。

「さあ、ゆっくり吸って、大きく吐いて…、少しはいいですか?」
理得はその声に小さく頷く。

「まだ、いきんじゃ駄目よ、痛みが来ても逃がしてね。呼吸法はさっき教えた通りにね。須藤先生、理得の手を握ってて…」
理得はその祐子の声で、ベットの柵を握っていた手を離し、龍に差し出した。
龍は理得の顔を見つめ、その差し出された手を見つめると、大きな手を繋いだ。

「赤ちゃんの心音は今の所は大丈夫。このまま御産が進むのを待ちます」
祐子は自然分娩以外に道が無い事を、自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
この道程が長いことは祐子が一番よく分かっている。

痛みが来ると龍の手に理得の手が食い込んでくる。
それと同時に理得の小さな声が漏れる。
食いしばる歯の隙間から漏れる声と、掌の汗が龍に伝わる。
その度に、今度は龍の体中の血が逆流して、汗が噴き出してくる。

繋がってる手が熱い。
龍にはそこだけが熱で溶けて本当に繋がっているように感じた。
うねりは激しさを増していく。
まるで2人で嵐の海に出ているみたいに…。

「破水しないわね…」
祐子が呟いた。
理得の御産は子宮口の大きさからして、もう当然破水してもしかるべき状態だった。
このまま時間ばかりが過ぎるのは得策ではない。
祐子はそう判断すると卵膜を人工的に破る処置をする準備を始めた。

「理得、破水しないと御産が進まないので人工破膜するからね、器具が入るけどちょっと我慢して…」
祐子が処置を施すと、程なく羊水が流れ出た。
これで胎児と子宮が密着して、陣痛が促されるはず…祐子はそう思っていた。

ところが胎児はなかなか降りては来なかった。
「先生、モニター見て下さい。心音ちょっと弱くなり始めました」
看護婦の声で祐子が振り向くと、モニターの心音を表す数値は徐々にだが下降し始めていた。

「お母さんの方の心拍も弱くなってます」
もう1人の看護婦の声で、今度は龍が振り向いた。

祐子と龍は思わず顔を見合わせた。
不安が2人の表情に浮かぶ。
『どうする?』『行くしかない』『やれる?』『大丈夫!』それはお互い対峙はしているが自問自答しているのと同じだった。

『ここで戻るわけにはいかない…』
『目の前の理得を助けたい…』
それぞれが不安を打ち消すように同じ事を思い込む。

そうして、いつしか2人の顔から不安が消えた。
2人は強い意志を再び取り戻して理得と向き合う。

「理得、ちゃんと息してね、赤ちゃんに届くように、ちゃんと息して…」
祐子が言う。

「真代さん、大丈夫ですからね、さあ、頑張りましょう…」
龍が励ます。

その声に理得は精一杯反応した。
そして3人の気持ちが前を向いたとき、動きが起こった。

「頭が見えてきたわ…」
祐子の声にも少し安堵が混じっている。

「理得、いきめる?赤ちゃんの頭が見えて来たから、これからが本番よ。痛みが来たら、長くいきむのよ、分かったわね」
理得は押し寄せる痛みの波にやっと自分を乗せている様な状態だった。
「さあ、いきんで!」
祐子の合図で龍も繋いだ手に力を入れる。
理得も声を漏らしながら、もう一度しっかりと痛みの波に自分を乗せようと必死だった。

「陣痛が弱いわ…、時間がかかりすぎる」
祐子は何度目かそれを繰り返した後に、理得のお腹に両手を乗せた。

「須藤先生、今度合図をしたらここを押して下さい」
「お腹を押すんですか?」
「そうよ、早くしないと赤ちゃんも理得も消耗してしまうでしょ!ちゃんと力入れて押して下さいね」
「そんなことしたら母体に、心臓に、影響がありますよ!」
「なら、どうするの?このままどちらも危険な状態にするつもり!」
「僕には出来ません!僕には母体を傷つける事は出来ない!」
龍は血相を変えて反論した。

「須藤…先生…、祐子の…言う通り…して…下さい…」
「真代さん…」
「私に…力…貸して…下さい…」
「でも、あなたが…」
「私は…大丈夫…、赤ちゃん…産みたい…」

「祐子…お願い…、この子…助けて…」
理得のその声で祐子は吸引の準備を始めていた手を止めた。

「大丈夫よ、絶対に助けてあげるから…」
「須藤先生、お願いします!」
祐子の声がもう一度飛ぶ。

龍は2人の顔を交互に見比べると、無言のまま理得の手を離し、理得のお腹に手をあてて祐子の合図を待った。

理得が再び苦悶の表情を浮かべ、呻き声を漏らすと、祐子は龍に目配せした。
「須藤先生押して!理得なるべく長くいきんで!」

3人の息が止まった次の瞬間、ズルっとした感触が祐子の手の中にあった。
「理得、産まれたわよ!男の子よ!もう、息は短くしていいからね、楽にして、もう大丈夫…」
祐子は看護婦と2人で慎重にへその緒を切った。

「さあ、泣いて…、もう沢山泣いていいからね…」
祐子の手が生まれたての赤ちゃんに触れるとそれが合図の様に、大きな泣き声が辺りに響いた。

「理得、おめでとう…」
祐子は涙で前が見えなくなった目をしっかりと開けながら、その大切な宝物を理得の傍らにそっと置いた。
「理得、男の子よ…、見える?あなたの子供よ。よく頑張ったわね…」
その後の声は嗚咽になって言葉にならない。

母親になった理得は祐子の声でうっすらと目を開けた。
そして、呆然とした龍の前で、真っ白な脱け殻になって、ただ浅い息を繰り返していた。