終炎 《4》
「強心剤だ!早く用意して!」
我に返った龍は、目の前の理得を食い入るように見つめながら、怒鳴るように言った。
その間にも、理得の命を表すモニターの数値はどんどん下がって行く。
「石橋先生、残りの処置に後どのくらいかかりますか?そちらの出血がひどいようなら輸血の用意もしなければ…」
「まだ後産がありますから、もうちょっとかかります」
祐子は涙を拭きながら、龍の言葉に答えた。
「真代さん、しっかりして下さい。僕が分かりますか?」
龍は赤ちゃんの方に顔を向けて、うっすらと開けている理得の瞳に問いかけるようにペンライトを向けた。
「僕が見えますか!?」
光に吊られる様にやっと上を見た理得に、龍はもう一度呼びかけた。
龍の必死の声に、理得がゆっくりと頷く。
「今度はあなたが生きる番ですよ!この子と一緒に生きるんだ!まだ早い、あなたは生きなきゃ…」
龍は看護婦が用意した注射器を理得の腕に刺しながら、次にどうするべきかめまぐるしく考えていた。
「せん…せい…」
ふいに理得の声がした。
「何ですか、真代さん?」
「もう…、なに…も…いい…です」
「何言ってるんですか?僕は諦めませんよ。心臓を開けてでもあなたを助けます。それが僕の仕事であり、使命です。僕から名誉挽回のチャンスを奪うつもりですか?」
「でも…まって…いるん…です…」
「待っている…」
その言葉に龍はハッとして理得を見た。
理得は天井の一角をじっと見つめている。
龍もその方向に目を向けた。
もちろんそこには誰もいない。誰もいるわけがない。
でも理得には見えていた…ユーリ・マロエフが手を差し伸べている姿が…。
「いるんですか彼が?」
理得が微かに頷く。
「理得、行くんじゃない!」
龍の突然の叫び声にその場にいる誰もがビクッと体を震わせた。
「どうしたんですか、須藤先生!」
処置に追われていた祐子が思わず顔を上げて龍を見る。
龍は全身を震わせて、拳を握りしめていた。
「せん…せい…、みんな…に…おわ…かれ…させ…て…、おね…がい…」
理得は最後の力を振り絞り、小声でやっとそれだけ言うと、目を閉じた。
龍はもう一度モニターを睨み、理得の閉じた瞼から流れ落ちる涙を見つめた。
「僕にこのまま何もするなってあなたは言うんですか…。それがあなたの望みなんですか…。最後の望みなんですか…。僕は何も出来ないのか…、何も…」
「須藤先生!?」
うわごとを呟くようにして立っている龍を、祐子が揺り動かした。
「どうしたの須藤先生?何言ってるの?こちらはもう大体済んだんです。後は静かにさえしていれば大丈夫ですから、そちらの処置を早く進めて下さい」
「石橋先生…外で待ってる皆さんをここに呼んで下さい」
「えっ!」
「真代さんと赤ちゃんに会わせてあげて下さい」
「だって、理得は…」
「もう、彼女の心臓は保たない…」
困惑する祐子に、龍はモニターを見ながらそうポツリと呟いた。
心拍も、血圧も、心電図も、その全てが理得の今を物語っていた。
祐子はもう一度龍を見上げる。
その顔からは血の気が失せ、目の輝きも消えていた。
「それが最善の方法なんですね…須藤先生…」
「…そうです、意識がある内に…、それが真代さんの願いでもあります…」
「…分かりました」
祐子は理得の側に行くとその髪を優しく撫でた。
そして、傍らの赤ちゃんを抱き上げると理得の腕にしっかりと抱かせた。
「綺麗よ理得、とても綺麗よ…、まるで天使のよう…、まっててね、今、みんな呼んでくるからね…」
祐子はメガネをとって涙を拭いた。
そして外にいるまりあと靖男を分娩室に招き入れた。
家族が入ってくると、入れ替わりで龍は外に出た。
30分ほどたっただろうか…。
「ありがとう、先生…」
微かな声がそう言った。
龍が声のした方を見ると、黒々とした窓の外に白い物が見えた。
が、ほんの少しだけチラチラとそれは舞うと、すぐに見えなくなった。
分娩室から嗚咽が漏れたのはそのすぐ後だった。
龍はその瞬間、もう一度、窓から空を見上げた。
すると再び、ゆっくりと白い物が落ちてきていた。
龍はその白い物に誘われるようにフラフラと外に出た。
白い天使の羽が舞うような雪。
「理得、君かこれは…」
受け止めても、受け止めても、消えてしまう天使の羽。
龍はその中で両手を広げ、地鳴りのような呻き声を上げ続けていた。