秋夜 《1》


10月の声を聞くと、理得は時々息の苦しさを感じるようになった。
普通の妊婦でさえ段々せり出してくるお腹に内臓を押され、さらにお腹の重みで歩くだけで息が切れるのだから、心臓に爆弾を抱えている理得には毎日が手探りだった。
いくらか白くなった顔を鏡で見る度にユ−リに願う。
「お願い、もう少し・・、もう少し待っていて・・」
まるで鏡の向こうにユ−リがいるように理得は呟いた。

「理得、もう病院に戻る時期が来たようね」
佑子は診察が終わったばかりの理得の顔を見た。
「理得だって分かってるでしょ」
同意を求める佑子の声に、理得はかぶりをふった。
「佑子、私、まりあをあのまま、あの家に1人で置いておけないわ」
「でも理得、あなたの体が・・」
「私は大丈夫。ギリギリまでまりあの側にいてあげたいの・・。私といればまりあの気も紛れるし、私もあの家になるべく長くいたいから」
「う〜ん、私の見た所ではもうギリギリなのよ、理得。カルテ、外科に回すから須藤先生の診察を受けてくれる、彼の意見も聞きたいわ」
佑子は理得を納得させるためにそう言うと、ため息をつきながら理得の後ろ姿を見送った。

今日、外科の外来ではなかった龍は、佑子からの電話で急いで医局を後にした。
「理得を納得させてね」
佑子の言葉が耳に響く。
待合いの長椅子に座る理得の姿を目に留めながら、龍は開いている診察室に入って息を整えた。
すぐに看護婦が持ってきた理得のカルテに目を通して、血圧や脈拍の数値を確かめると、龍は眉を曇らせ目を閉じた。
「真代さんを呼んでくれないか」
龍はいささか緊張した声で看護婦に伝えた。

程なく名前が呼ばれた理得が診察室のドアを開けて、龍の前にゆっくりと現れた。
「久しぶりですね。元気でしたか?」
「はい」
「さっそくですが、少し胸の音を聞かせて下さい」
龍はいつもと変わらない声のト−ンで、理得の少し盛り上がった胸に聴診器をあてた。

「石橋先生はなんて言ってました?」
「病院に戻るようにって・・」
「私もその意見に賛成ですよ」
「でも・・」
「今まで何の為に頑張って来たんですか?お腹の赤ちゃんの為でしょ。それなら病院に戻るべきだ」
「でも、まりあもこのままにしておけません」
そういい終わると、理得は急に息を乱した。
顔色が悪くなり、明らかに苦しそうだ。

「ゆっくりとこれを吸って・・」
龍は携帯式の酸素を理得の口にあてがった。
しばらくすると理得の呼吸は元に戻り、顔色も戻りつつあった。

「たぶんこれが初めてじゃないはずです、そうでしょ真代さん。あなたの息が苦しくなると言うことはお腹の赤ちゃんも苦しくなるんですよ、それをよく考えてみなさい。まりあさんのことが心配なのは分かりますが、僕はあなたの方がもっと心配です」
理得の目に涙がうっすらと滲んできたが、龍は意見を曲げるつもりはなかった。
「すぐに入院の支度をして、明日にでも手続きをとって下さい」
龍は有無を言わせぬ声で念を押す。
「それと、まりあさんのことですが、まだ病院のあなたの所に来れないようなら、僕が時々様子を見に行きますから、心配しないで下さい」
「とりあえず無事に元気な赤ちゃんをあなたが産むのが先ですよ」
理得は龍の言葉に黙って頷いた。

家に戻るとまりあが暖かいシチュ−を作って待っていた。
「お姉ちゃんお帰り、病院どうだった?」
「うん・・」
「どうしたの、元気ないね。佑子先生に太り過ぎですって言われたの?」
「まりあったら、そんなことあるわけないでしょ、今だって十分イケテルと思わない」
「あら、何処から見ても妊婦さんよ。どうする〜このまま戻らなかったら」

まりあは軽口を言いながら、理得のためにお皿を用意した。
「はい、まりあ特製の元気の出るシチュ−よ、まだ御夕飯にはちょっと早いけど、お腹の空く妊婦さんへのサ−ビスです」
「まりあ、ありがとう」
理得はまりあの気遣いに感謝しながら、席に着いた。

「実は・・」
「何、深刻な顔して、それより、さあ早く食べてみて」
理得はせかされるままにスプ−ンを口に入れた。
「どう?美味しいでしょ。またお姉ちゃんの所にも時々作って持って行くからね」
「えっ?」
「さっき佑子先生と須藤先生から立て続けに電話があったの」
「・・・」
「私なら大丈夫よ。バカねお姉ちゃん、今はお姉ちゃんの体の方が大切でしょ。それを食べたら支度があるんだから今日は忙しいわ」
「だって、まりあ。あなたまた1人になってしまうから・・」
「お姉ちゃん忘れたの、『拓麻はずっと側にいる』そう教えてくれたのはお姉ちゃんよ」
「まりあ」
「お姉ちゃんがユ−リを感じるように、私も拓麻を感じたい。だから安心して病院に戻って元気な赤ちゃんを産んでね」

理得の為にそうは言ったものの、まりあにも確たる自信があるわけでもなかった。
すぐに社会生活に適用する事も出来ないだろうし、なによりまだ恐怖が残っている。
これから先どうなるか分からない。
でも、生きて行かなければならないと体の奥底で声が聞こえる。
拓麻の声が聞こえる。
まりあは姉の理得が越えた道を自分もまた自分の力で越えようとしていた。