秋夜 《2》
病院に戻った理得は素直に佑子や龍の指示に従った。
ただ、理得が毎日を静かに通り過ぎるように過ごしている様が龍には気がかりでならなかった。
佑子にそれとなく聞いても「まりあちゃんのことが心配なんじゃない」と言うだけで、別に気にする風もない。
龍はこの嫌な感じが何なのか自分で確かめずにはいられなかった。
「真代さん、失礼します」
ノックの音と共に理得の部屋に入った龍は、理得の姿を見てハッと息を呑んだ。
理得が窓枠に身を持たせかけて夕暮れに染まる空をぼんやりと眺めていたのだが、その後ろで支えるようなもう一つの影が立っていたのだ。
ほんの一瞬だが確かに誰かが理得を支えていた。
「須藤先生、どうかしましたか?」
理得はドアの所で立ったままの龍に不思議そうに声を掛けた。
「あ、いえ、別に・・」
龍はどぎまぎとした心を落ち着かせながら、ベットに戻った理得の側にある椅子に腰掛けると、しっかりと理得の顔を見つめた。
「真代さん、体の調子はどうですか?」
「ええ、今の所は大丈夫です」
確かに顔色もいいし、特に変わったところも見あたらない。
龍は探りを入れるように話し始めた。
「そうそう、昨日まりあちゃんの所に行って来たんですが、元気そうでしたよ。まだ外出するのは大変そうでしたが、今は電話とかインタ−ネットで買い物も出来るし、その点は大丈夫そうでした」
「そうですか・・。先生、まりあの事気にかけてくれてありがとうございます。私、電話でしか様子を聞けないので、先生がこうして尋ねて下さると安心です」
「いえ、このくらいは何でもないです。それに真代さんの育った家の様子が分かって、僕としてもこれからたまに通うのに楽しみが出来ました」
「あの家には沢山の思い出があります。私が一番好きな場所です」
夕暮れが足早に過ぎるとヒンヤリとした夜がすぐにやってくる。
窓から流れてきた秋の風がふっと2人の会話を遮ったが、理得は視線を窓の方に移した龍が自分の方を向くのを捉えて口を開いた。
「あの、須藤先生、前から気になってた事があるんですが・・」
「何ですか?」
「楓さんの事です」
「・・・」
龍は理得の言葉を耳にして、瞬間目を伏せたが、自分をじっと見つめているだろう理得の眼差しを感じて、ゆっくりと理得を見つめ直した。
「すいません。この件に関してはもっと早くあなたに知らせるべきだったのかも知れませんね。楓は、僕以外の人の認識をなくしてしまいました。僕の事を夫だと思い、来年の結婚式を楽しみにしています。あなたのことも、自分のしたことも何も覚えていません」
「そうですか」
「ショックで一時的に記憶を無くしたんだと思いますが、僕はこの方が楓にとって良かったと思っています」
「少し安心しました。須藤先生、楓さんを幸せにしてあげて下さいね」
理得の言葉に龍はどう反応したらいいか困りながら、それでも苦笑いを浮かべた。
龍自身どこかで気持ちを切り替えなければならないことは分かっていたが、今はまだ理得の事が頭から離れない。
龍は真顔になると今度は理得に質問した。
「実は僕もずっと気になっていたことがあるんですが・・」
「何でしょう?」
「病院に戻って来た真代さんは、以前の真代さんとちょっと感じが違って思えるんです。家に戻られてる間に何かあったんじゃないかと思って・・」
理得は龍の言葉を聞き、ふっと微笑むと悪戯っぽい目をして、細く白い掌を龍の目の前に差し出した。
龍は龍で差し出された掌をじっと見つめて、理得の次の言葉を待った。
「先生、私の掌透けて見えませんか?」
「えっ!」
確かに透けるように白い理得の手だが、どう見ても白いままだ。
そのうちクスクス笑う理得の声で、龍はやっと自分が担がれた事に気が付いた。
「真代さん!」
「だって、先生があんまり真剣だから、悪戯したくなっちゃって・・、フフ、ごめんなさい」
「まったく、もう、あんまり脅かさないで下さい。まあ、僕は大人ですから、こんな事を根に持ったりしませんが、今度やったら、痛い注射打ちますからね」
「は〜い、以後気を付けます」
龍は理得に上手くはぐらかされたと思ったが、無邪気な様子に安心して、そのまま部屋を後にした。
『きっと僕の思い過ごしだ、第一担当医である僕があの影に怯えてどうする。きっと僕は怯えているんだ、だから見えた』
龍は自分にそう言い聞かせた。
1人になった理得はさっき龍の前に差し出した掌をじっと見ていた。
その掌には赤と青の血管が無数に見えていた。