秋夜 《3》


病院の一日は早い。
,あっという間に終わってしまう。
日没が早くなったせいか、気が付くといつも空は暗く、星が輝いていた。
『時間が欲しい』
そう思う時間も惜しいほど、一分一秒過ぎていくのが龍には許せなかった。
この焦りにも似た感情は、あの日から始まった。
そう、あの影を見た日から・・。

「神崎先生、この真代さんの手術のカルテと術後のカルテ、コピ−させてもらってもいいですか?」
「あ、はい、どうぞ。・・・何か・・ありましたか?」
「いえ、別に、ただもう一度初めから見直してみたいと思いまして・・・、真代さんはここに運ばれてきた時には、かなり危ない状態だったんですよね」
「ええ、もう、それは、手術した僕でさえ、ダメだと思ったくらいね。石橋先生にも言ったけど、あれは奇跡としか言いようがなかった」
「奇跡ですか・・」
「そうです。でもああやって元気になって、一時退院まで出来る様になるなんて、人間の生命力は分からないものです」

理得のカルテは厚い。
龍はそれを自分で一枚一枚コピ−しては、丁寧に綴じて、カバンにしまった。
家に帰る道を運転しながら、龍は自分が理得の心臓を開いてる姿を思っていた。
ユ−リ・マロエフに打ち抜かれた理得の心臓を前に立つ自分の姿を思うだけで、鼓動が早くなるのが分かった。
メスを握った手が小刻みに震えて、冷や汗が流れる。
『早くしなければ、死んでしまう』
そう思えば思うほど、体は硬直し、動こうとはしない。

クラクションの音で顔を上げると、信号は青になっていた。
アクセルを見つけだした足に力を入れて、何もなかったように他の車の流れに沿う。
カ−ステレオから流れるジャズのクラッシックナンバ−がそうさせた訳じゃない。
誰のせいでもない。
この頬を流れる涙は自分のせいだ。
たとえそれが絵空事でも理得を助けられないと思ってしまった悔しさと悲しさ。

本当は大声を上げて泣きたかった。
泣いて泣いて、この胸の中にあるもの全てを洗い流してしまいたかった。
マンションの駐車場に着いてからも、その気持ちを抑えるのに唇を噛んだ。
自分の気持ちを楽になどしたら、見えるものも見えなくなってしまう。
これからは1つも見落とすことなくいなければ、ヤツに負ける。
それだけは出来ない。
臆病な自分をポケットにねじ込んで、自分の体を傷つけてでも、覚醒していなければ・・。

今日は楓が来る日だった。
龍は大きく深呼吸を1つして、車のドアをバタンと閉めた。
優しい夫の顔をして、楓に向き合うのも慣れては来たが、こんな時はやはり気持ちが顔に出そうで怖い。
楓は感がいいから尚更だ。
楓に理得の事を知られる訳にはいかない。
きっと今だって暖かい料理を作って僕の帰りを首を長くして待ってるのだろうから・・。

「ただいま」
「お帰りなさい」
楓の額に軽くキスをすると、口の中に残っていた涙の味がした。
楓に申し訳ない気持ちでしたキスが、さっきまでの自分を思い起こさせて、あわてて着替えに寝室に行くと、キッチンで楓が嬉しそうに鼻歌を歌っているのが聞こえてきた。
その声を聞いてほっとする自分がいる。
これは罪なのだろう、背徳心がほっとした胸を過ぎって、消えた。

夕食を済ませ、新聞を見ながら、楓の入れてくれたコ−ヒ−を飲む。
「先にお風呂に入るね」
楓の姿がそう言って消えると、龍はカップを置き、さっきカバンに入れたカルテのコピ−を出した。
以前に一度、目は通したが、あの時とは状況が違う、自然に熱を帯びてくる。

「龍、龍、聞こえないの?」
「えっ?ああ、もう出たのか?」
気が付くと、パジャマ姿の楓が目の前に立っていた。
「さっきから、キッチンで『何か飲む?』って聞いてるのに、全然振り向かないから、どうしたのかと思って・・」
楓はビ−ルの缶を片手に持って覗き込むように龍を見ている。
「ごめん、気が付かなくて、耳が遠くなったのかな・・、ビ−ルはまだいいや、シャワ−浴びてからにする」
龍がそう言って席をたった後、楓はカバンの上にある書類を揃えようと手に持った。

病院の娘である楓にはそれが患者のカルテであることはすぐに分かった。
「龍も大変ね、こんな物持って帰らなきゃならないなんて・・」
そう呟いて、パラパラとカルテをめくり、丁寧に揃えて机の上に置いた。
ドイツ語で書かれたカルテは意味がよく分からないが、心臓の絵の上に大きな×印があったのだけは分かった。
「かわいそうに・・」
楓の哀れむような瞳がカルテの上に注がれる。

それと比べると今の自分は幸せだと思った。
記憶が無いと言っても健康でいることには変わりないし、自分には居場所がある。
なにより龍が浴びるシャワ−の音が自分のいるべき場所を表している。

「さて、何かおつまみでも作ろう」
そう言って楓はキッチンに向かった。