手紙 《3》


夕方になっても龍は約束の店に来なかった。
夕闇が迫ってきている外に出て、地下鉄の駅に向かいながら、
『事故にでもあったのではないか…』
そんな悪い事ばかりが頭に浮かぶ。

そんな不安を抱えたままマンションに帰ると、私は留守番電話にしてあった電話に一目散に向かった。
が、暗闇の中で留守番電話の録音ランプは光っていなかった。
大きなため息が自然に口から出て、しばらくはその場を離れられない。
それでも重い足取りでリビングの明かりをつけると、私はハッとして立ちつくした。

誰かがこの部屋に入った。
それは一目瞭然だった。
開け放されたドア、ちょっと向きが変わっている椅子。
そして、テーブルの上には手紙と鍵があった。

恐る恐る、テーブルに近づくとそれを手に取る。
鍵は龍の車のものだった。

手紙は…
最初に読んだときはよく意味が分からなかった、リュウという言葉以外は…
2度、3度、何度も読んでいるうちに、やっと私にもこれが龍の母親が昔書いて送ったものだということが分かった。
そして、幼かった龍を置いて母親が父親に会いにユーラルという国に向かったままだという事も…
龍が来なかった訳も…

呆然…
そう、まさに私は呆然として、頭で考える事もなしに、ずっと手紙の文字だけを見つめていた。
ソファーに座り込んで、両手で鍵を持ち、その中に自分への温もりを見つけようともした。
でも、何もなかった…自分に残されたものは何もない。

記憶が戻って私が変わるのではなく、過去を知って龍が変わってしまった。
何も知らない私を残して…
それは私の破滅を意味した。

私が守ろうとしていたのは、砂の城だったの?
こんなにももろい砂の城。
私は何を見てきたのだろう?

「アハハ…」
私は笑った。
笑いながら涙を流していた。
もう、眠ることも、食べることも、いらない。
笑って泣くだけ…、それだけの毎日があればいい。
そうして、狂ってしまえばいいのだ。
そうすれば、何も分からない…分からなくていいのだから…

そうやって、次の朝が来た。
電話の線も切った。
誰かが来ても返事もしない。
そういえば、もうすぐ結婚式だ…あれは誰のだっただろう?
そんな事が頭をよぎる。

夜が来て、朝が来て、どうして人は狂いたいときに狂わないのだろう?
死ねないのだろう…

誰かがチャイムを鳴らした。
だが、それだけだった。
静かな訪問者はきっとセールスの人に違いない。

次に、カサッっと音がした。
そしてまた静寂が戻る。

辺りを見回しても誰もいない部屋。
独りの世界。
これが現実なんだ…

そう思うと急に私は立ち上がって、音のした方によろよろと歩いた。
玄関の床に小さな紙が落ちていた。
小さすぎて郵便受けから落ちたのだろう。
「佐伯」と書かれた名刺。
その名前に私は見覚えがあった。
『会いたくないから、僕が居ても取り次がないでくれないか…』
そう、龍が私に言った人だ。

『この人は何か知っている…』
私のもうろうとした頭がやっとそう答えを出した。
何か…って何だろう…
私は自分の手首の傷をなぞった。

決心がつくまでの時間は長く感じた。
でもきっとそれは数秒だったに違いない。

私は足をもつれさせながらベランダに出ると大きな声を出して、駐車場の車に乗り込む寸前の男性を呼んだ。
悲鳴に近い声で呼んだ。

彼の振り返った顔を私はどんな思いで見たのだろう?
彼はどう私を見たのだろう?

私達は目が合うと無言でお互いを見やった。
そして、彼は車のドアを閉めるとゆっくりとマンションの入り口に向かって歩き出した。
私はじっとそれを見ていた。
そして、彼が見えなくなると、頬を伝う涙をグイッと拭った。