ラビリンス 【2】




この車は、マルシアンに向かっている…。
サンヒョクが何も言わずに、車を運転していても、その事はお互いに知り得る事だ。

あの交差点は右。
街路樹が続く道の先の、ぽっかりと空いた空き地だった場所は、今は公園なんだ。
そして、この坂を上れば、左手に煉瓦色の建物が見えてくる。

「ユジンは、此処で待っている?」
サンヒョクは車を止めると、隣のユジンを気遣った。

「ううん、私も行くわ、サンヒョク。自分でちゃんと確かめたいの…」
車のドアを閉めて階段までの数歩、舗装された道路を歩く。
ただ、それだけの事なのに、マルシアンの外観を見ただけで、足が思うように進まない。

現在のマルシアンの責任者は、キム次長だとジュンサンが教えてくれた。
学会で日本に来たならば、その情報をキム次長が知らない訳がない。
そう言えば、あのパズルもキム次長からの贈り物だと、昨日の彼は嬉しそうに話してた。
あの笑顔の下で、ジュンサンはずっと、思い詰めていたのだろうか。

「こんにちは。私はキム・サンヒョクと言います。こちらの責任者のキム…、えっと、キム理事はいらっしゃいますか?」
サンヒョクが秘書の女性と話をしている間、ユジンは部屋のあちこちに目を配り、ジュンサンの気配を探していた。
だが、ミニョンとして仕事をしていた部屋は静かで音もなく、コーヒーの匂いも、煙草の匂いも、どこからも流れて来なかった。

「キム理事は、出掛けておりますが…」
「そうですか。今日はもう戻る予定はないでしょうか?」
「はい、戻る予定はありません。実は、今日の午後の便で、米国の本社に向かいましたので、1週間ほど戻らないのです」
今日の午後と言う言葉を聞いて、サンヒョクとユジンは思わず顔を見合わせた。

「あの…、キム理事は、お一人で行かれたのですか?」
「いえ、連れがおります。航空券は2枚用意しましたから」
サンヒョクのおずおずとした質問に、秘書は事務的に返事をする。

「それは、どなたでしょうか?教えて頂きたいのです」
ユジンは、その淡々とした話しぶりに、挑むような声で聞いた。
「どういった用件で本社に行かれたんですか?もちろん仕事の事で、ですよね?」

「あの…?」
その語気に押され気味の秘書は、困惑の色を隠せない。
サンヒョクとユジンの顔を見比べて、次の言葉を言おうか言うまいか考えている。

「イ・ミニョン氏じゃないですか?マルシンアンの前理事であった、イ・ミニョン氏では?」(こら)えられなくなったユジンは、核心に触れる。
「僕達、彼の同級生で、彼を捜しているんです」そして、サンヒョクは、ユジンを助けるようにそう付け足した。


漢江(ハンガン)の水面(みなも)は、夜でもネオンの明かりを反射して綺麗だ。
いや、夜だからこそ、その明かりは漆黒の闇で輝く術を生かしていると言える。
生かされるべき場所…、それはどんな物にもあるのだ。
それが彼にとっては、私の側ではなかっただけ…

「この綺麗な景色も、もう見られないのね…」
ユジンは川縁(かわべり)の鉄柵にもたれるようにしながら、ポツリと呟いた。

「それが今、彼にとってどういう意味なのか、やっと分かったわ…」
「ユジン…」
「バカよね、私。
昨日は、ジュンサンに会えた嬉しさだけで舞い上がって、彼がこの3年、どんな苦労や苦悩をしていたか、上辺だけでしか理解していなかったの。
彼は光を失ったけれど、以前と同じように仕事までこなして、ああして1人で旅行だって出来るようになっていた。
だから、私、彼は、以前と同じジュンサンだと思って安心したのよ。安心して、甘えてしまった。
だけど、本当は、違うのよね。
私はフランスで勉強して、ジュンサンを想う毎日だったけれど、彼は光を失って、きっと恐怖や挫折を、嫌と言うほど味わっていたんだわ。
ねぇ、サンヒョク…、目を閉じると、ここに立っているだけで怖いの。
川の流れる音が、普段は気にならないのに、目が見えないとそれが何倍にもなって、耳から聞こえる。
ゴーゴーと、まるで激流のようだわ…
もし、ここから盲目のまま10歩前に歩けって言われたら、私は手に汗を握りながら、何分かかるんだろう…」

サンヒョクは、ユジンの後ろ姿をじっと見ていたが、同じように川縁まで歩くと、ユジンと肩を並べた。
「ユジン、そんなに自分を責めるなよ…」
「でも、サンヒョク、ジュンサンが米国に戻ったという事は、そう言う事よね。彼は彼の安心出来る場所に戻ったんだわ…」
「そうかもしれないけれど、それは、君への愛とはまた別だ。言っただろう、ジュンサンは愛しているから、君を守れない事が辛いんだって…」
「私が守ろうとしたのに…」
「男はそれじゃ、駄目なんだ。駄目なんだよ、ユジン…」
「じゃあ、私はどうすればいいの?」

それは、真剣な眼差しだった。
サンヒョクは、その視線を一旦外すと、ポケットから煙草を出し、口に(くわ)え、ライターを探した。
風が無い夜だったので、火は簡単にその先で発光し、白い煙となって夜空に流れる。

「行くんだよ、米国に。今度こそ、ジュンサンを追うんだ」
「私は彼を分かってあげられなかったのよ…」
「だからといって、ユジンが韓国にいても何の解決にもならないだろう。自分でジュンサンに会って確かめろよ。そして話し合って、今度こそ、結末を付けてこい」
「結末?」
「初恋の結末だよ。
ユジン、高校生の君は、良く笑う可愛らしい女の子だった。
僕はあの明るいユジンが好きだったんだ。だから、ちゃんと結末を付けて帰ってこいよ。もちろん、ジュンサンを連れてだ。
そしてもう一度、高校生の時のように笑ってくれ…」

高校生の時の初恋…
あの頃に、戻れるものなら戻りたい。
無防備だったけれど、それだからこそ、素直になれた恋。
あの恋は、雪の中で眠っている。
確かに結末のないまま、眠っているのだ…。

「それに、この時の、この笑顔だって、本物だったんだろう?」
そう言って、車のダッシュボードから出された1枚の封筒。
ユジンはそれをサンヒョクから受け取ると、中にあった写真を手に取った。

「これは…」
「ユジンがフランスから帰って来たら、渡そうと思ってずっと持っていたんだ。
ジュンサンから処分して欲しいと頼まれた写真だったけど、僕には兄弟だと知らずに笑顔を向けるこの写真に罪がないと思って、破くことが出来なかった。
実際、兄弟でも何でも無かったわけだから、今となっては君たちの愛の軌跡に過ぎない。が、今のユジンには、とても必要な物だろう?これを持って、ジュンサンを迎えに行けよ」

「…」
頷くと、涙が零れそうだった。
声を出すと、もっと涙が止まらない。
それが分かっているかのように、サンヒョクは、口に手を当てたままの私の肩を抱いてくれた。

そこには、ジュンサンと私がいる。
未来の悲運も知らずに、愛の証だけを残そうとした真摯な気持ちのまま。
幸福の断片は、そうして写真の中で、永遠の愛を信じて微笑んでいた。