ラビリンス 【4】




「今度こそ使ってくれよ…」

サンヒョクがそう言って渡してくれたチケットを持って、ユジンは先日降り立ったばかりの空港の待合いロビーで、出発の時間を待っていた。
ニューヨークと書かれたそのチケットの文字を見て、これから1人で向かう事に不安が無いわけではない。
でも、今はただ、ジュンサンの事だけを考えて、彼に会うことだけを考えて、ユジンはその不安を消し去っていた。

「ジュンサンの居場所は、米国にいる彼の母、カン・ミヒ女史に聞けば分かるはずだ」
サンヒョクは住所を書いた紙を見せながら、そう難無く言ったが、その出所を考えると心なしか胸が痛い。
それはきっと、サンヒョクの父親が用意してくれたのに違いなかったからだ。

それに、一緒にもらった薄いグレーの封筒。
私がそれを見て不思議そうな顔をすると、サンヒョクは「父さんからだよ…」とさらりと話し、「中は何が書いてあるか、僕も知らないんだ」と付け加えた。
「ユジンへのラブレターかな?飛行機の中で読んで欲しいと言ってたから…」
サンヒョクの顔を眺めていた私は、その顔が少しだけ微笑むのを見て、小さく頷き、それをそっと撫でてみた。
ジュンサンの父親からの手紙。
それは、温かな重さを持っていた。

キム・ジヌ教授がジュンサンとサンヒョクの父親だと聞いた3年前、あの時は気が動転して、何も考えられなかったが、今になって思えば、実家で見た、あの白黒写真は1つの暗示だったのだと思う。
私の父と恋人どうしだったカン女史、そして、その横に居たキム教授、それに私の母。
4人の入り組んだ恋が、私達の悲劇を生んだとも言える。

ジュンサンは高校生の時に、父親に会いに来たと話していた。
あの時彼は、サンヒョクの父親に会いに来たのだ、だからサンヒョクを目の敵にして、いつもいつもケンカを売るような目でサンヒョクを見ていたんだ。
でも、それがいつしか、ジュンサンの父親は私の父になり、兄弟となったのは私とジュンサン。
どこで入れ違ってしまったのか?それは今となっては分からない。

ユジンは手荷物鞄に仕舞ってある手紙を気にはしたが、それはやはり、サンヒョクの父親の言うように、飛行機の中で読もうと思った。
飛行機という流れていく時間の中で、きっと読んで欲しいのだ。
時計を見て立ち上がると、丁度良く、空港のアナウンスがユジンを呼んだ。

彼の後を追うのは、美しい思い出を無くす為じゃない、ありのままの現実こそが美しいと彼に言う為。
ユジンはその強い意志を持って、韓国を後にした。


初めての米国は、高いビルを見慣れているユジンにも、驚きを与える。
でも、今は、そんなことに驚くより、日が沈まないうちに、書かれた住所にたどり着かなければならなかった。

ユジンはタクシーに住所の紙を見せると、座席に深くもたれ、外の景色に目を向けた。
この町にジュンサンがいる。
そう思っただけで気持ちが高揚した。
が、これからの事を考えると、浮かれてばかりもいられない。
ユジンは、気持ちを引き締めると、さっきまで繰り返し読んでいたキム教授の手紙の内容を反芻(はんすう)しながら、これから再会するジュンサンの母、カン女史を思った。


『ユジンへ

サンヒョクから、話は聞いたよ。君はジュンサンを追って米国に行くんだね。
私は、3年前にジュンサンが米国に旅だった時、不憫(ふびん)なあの子に何もしてやれず、今も、ただ、こうして離れた地で見守ることしか出来ないでいる。
その事情は、ユジンも知っているだろう?
私には妻も、サンヒョクもいて、自分のエゴだけでは動けないからだ。

でも、これだけは知っておいてもらいたい。
私は、ジュンサンの母親であるカン・ミヒを愛していた。
だから、ジュンサンも私にとっては、サンヒョクと同じ愛の証だったのだと。

話は私達が青春を謳歌(おうか)していた頃に戻らなければならないが、聞いてくれるだろうか?
君の父親のヒョンスとミヒ、そして私は幼なじみで小さい頃から本当に仲が良かった。
だが、年頃になると、皆そうであるように、私達もお互いを意識しだし、頭が良くて美人で才能に溢れるミヒに、私もヒョンスも心惹かれるようになったんだ。
2人から愛されるようになったミヒは、最初こそ戸惑っていたようにみえたが、でも、心の中では最初から決まっていたのだろう、直ぐにヒョンスと婚約をした。
私は、正直悔しかったが、彼女だって2人を選ぶ訳にもいかない、だから、諦めるしかなかったんだ。

が、2人の結婚の話が具体的に出た頃、運命の歯車が大きく変わることになる。
そう、ヒョンスが君の母親と出会ったからだ。
君の母親は、行商をする自分の母を手伝うような、そんな心優しい人だった。
ヒョンスはそんな優しさに惹かれたのか、いつも寒そうにしていた君の母親を気に掛け、温かい食べ物を持って行ったり、マフラーをプレゼントしたりしていた。
そして、まもなくヒョンスはミヒに婚約の解消を申し出た。

「ミヒ、君は才能もあって頭も良い、これから先、君ならどうやってでも生きていけるだろう。だが、ギョンヒは、僕が守ってやらなければ生きていけない」
私はヒョンスのその言葉に驚いたが、ミヒはもっと驚いたようだった。
ミヒは自分に自信があったんだ。これまで光り輝くような道を歩いていたんだから、それは無理もない事だろう。
信じられない…、そういう顔でヒョンスをじっと見ていた。
でも、その場では、特に取り乱すことも無く、話は案外あっけなく決着するかのように見えたんだ。

私は内心、これで自分にもチャンスが来たと思った。
ミヒは、自分の中では憧れの象徴であり、宝石のような人だったからね。
しかし、ミヒはそれから、まるで人が変わったかのようになってしまった。
お姫様のようなプライドも捨て、ただヒョンスを取り戻す為に必死になって、2人に付きまとい、時に悪態をつくようになったんだ。
でも、ヒョンスとギョンヒの絆は深く、2人はミヒになんと(ののし)られようと手を握り合ったまま、いつも哀れむような目で、ただミヒを見つめていた。

そして、あの日…
2人が結婚すると、ミヒはそれに当てつけるように、まだ冷たい湖に身を投げたのだ。
ミヒが心配で、ずっと後を追っていた私がミヒを助けた時、彼女はまるで捨てられた子犬の様だった。
あの宝石のような人が、だ。

その姿を見た時、私は彼女を抱きしめていた。
こんな姿になるほど、ヒョンスが好きな彼女が、どうしようもなく愛おしかった。
私は思ったよ「カン・ミヒは、宝石じゃなく、愛を求める普通の女性なのだ」と。
「僕じゃダメだろうか?ミヒ…。僕は君を愛している」抱きながら、僕はミヒにそう言った。
するとミヒは「私を愛してくれるの?じゃあ愛して、愛で私を埋め尽くして…」と僕の腕の中で震えたんだ。

私はミヒの言葉を信じ、そうして私達は愛の中で一線を越えた。
少なくとも、私はそう思っていた。
が、ミヒは、しばらくすると春川から姿を消したんだ。
あの時は理由も分からずにいたが、今思えば、妊娠したのが分かったからだと思う。

私は自分が愛した人だから、すぐに彼女を探したが、とうとうミヒは見つからず、その失望と寂しさを紛らわすように、知り合ったばかりのチヨンと結婚した。
チヨンはあの頃は、従順な女性だった。
その素直さが救いだったんだ。

ミヒは、それからジュンサンを産んで、彼を拠り所にしながら生きていたんだと思う。
それは、ミヒにとって、辛い年月だと容易に察しがつく。
私は、もしかしたら彼女に2重の苦しみを与えてしまったのかもしれない。
だからユジン、どうかミヒを恨まないでやって欲しい。

私はジュンサンが自分の子供だと分かった当初、ジュンサンに深い憐憫(れんびん)の情を抱き、そればかりを気にしていた。
だが、自分の周りに残されたのは、30年近く喜びも悲しみも分け合ってきた家族だと気がつき、それからは、チヨンとサンヒョクに詫び、家族の輪を守る努力をしてきたつもりだ。
幸い、サンヒョクは、君とジュンサンの事もあって、男としての私の気持ちを理解してくれるようになった。
しかし、チヨンはミヒとジュンサンに二度と会わないことを条件にすることでしか、私を許す術を見つけようとしなかったんだ。

そんな事もあって、私は、ミヒと1度しか連絡を取ってない。
それは、ジュンサンの病状を確認する時だけだった。
あの時ばかりはチヨンに許可を取って、ミヒの事務所を通じて彼女に連絡をした。
この住所は、その時聞いたものだ。

ジュンサンの手術が成功して、命に別状がないと聞いた時は嬉しかったが、失明した事実は胸に重くのし掛かり、何故あの子だけが不幸になるのかと、私は神を恨んだよ。
「高校生のジュンサンが私を訪ねて来た時、気づいてやれなくて…。私が悪かったんだ」私はそうミヒに謝った。
でも、ミヒは言っていた。
「貴方は何も悪くない、何も知らなかったのだから…。私があの子を満たすことなく、自己満足な生き方をした、それが全ての間違いだったのよ。裁かれるべきは、私だったのに、その私の罪をジュンサンが被ってしまった。私は、これから一生を掛けて、あの子に償わなくてはならない…」

ユジン、本当なら、私も一緒に米国に行くべきなのに…、それが出来なくて申し訳ないと思ってる。
そして、これが虫の良い願いなのも承知で頼みたい。
どうか、ジュンサンに会ったら、伝えて欲しい…。

私が分け与えた命を持つ君を心から愛している。そして、君の幸せを心から願っている。

キム・ジヌ』