巡り逢う理由 【1】
私の一日は、ここから始まる。
リ・ジュンは今朝もエレベータでなく、階段を上がって部屋の前までくると、呼吸を整えてからチャイムを押した。
その手には頼まれていたクリーニングの袋が3つと、少し大きめの鞄が1つ。
スーツ姿に、スニーカーという出で立ちだ。
「イ理事、遅刻しますよ〜!」
ドアの前でニヤッとしながら、ジュンは嬉しそうに大声を張り上げる。
それもいつもの事。
「分かったから、騒がないでくれよ…」
そう困ったように返事をする、ミニョンの声が聞きたいのだ。
「お待たせしたね」
程なくミニョンはドアを開け、いつものように爽やかな笑顔を向けた。
「はい、これ頼まれていたクリーニングです。上から、グレーのスーツ、縞のシャツ、それと生成りのコットンパンツ。いつものように点字のタグを付けて置きましたので、お納め下さい」
「ああ、そうだ、急いで日本に出掛けたので、君に預けっぱなしだったね。しばらく留守にしていたから、邪魔だっただろう?」
ミニョンは話をしながら、手渡された袋を玄関の中に置いて、部屋に鍵を掛けた。
「いいえ、そんな事はありません。それより学会の事、聞きましたよ。凄く評判良かったって…」
「あ、うん。今回、初めて学会なんて場に出て見たけれど、思ったよりスムーズに出来て、僕もちょっとだけ自信がついたよ。
でもそれは、リ室長が僕の考えをキッチリと文章にまとめ、資料を完璧に作ってくれたおかげだと思っている。
だから、この評価はリ室長のものでもあるんだ。本当にありがとう」
ジュンはミニョンにそう言われた嬉しさで、廊下を歩きながら小さくガッツポーズをする。
その姿をミニョンに見られないことが幸いだ。
「リ室長、今日も歩いたの?」
ジュンの足音に気がついたミニョンが、エレベーターの前でそう尋ねると
「運動して体力付けないと、仕事でこき使われるから大変なんです」
ジュンは、涼しい顔をしながら、そうユーモアで切り返すような女性だった。
イ・ミニョン理事の事は、一緒に仕事をする前にソン社長から話を聞かされていた。
その時ジュンは、セウングループの会長の兄弟の御子息と言うことで、優遇されて当然だが、でも何も目が見えない人を理事として迎え入れることはないのではないか?とソン社長に提言している。
建築の仕事をするのに、目が見えないなんて有り得ない、それがジュンの中の常識だった。
「確かに彼はそう言う意味では優遇されているが、でもそれは仕事とは別だ。君も彼に会えば分かるだろう…」
ソン社長のその時の言葉は、ジュンにはお世辞としか受け取れなかったが、自分の室長としての立場では、上司を選ぶ事も出来ず、素直に「分かりました」と言うしかない。
「こんな事だったら、点字なんて習うんじゃなかった…」
ジュンはハイスクール時代の、ボランティアの経験を悔やみ、社長室を出る時には、そうぼやいたものだ。
そして、初対面の日。
その日は、ニューヨークで珍しく遅くに降った雪の日だった。
それが最後となったなごり雪がチラチラと舞う中、その彼は、薄い茶色のサングラスを掛け、そのサングラスよりちょっと濃い色のコートを着て現れた。
若くてハンサムな好青年。
それがジュンの第一印象だった。
見た感じでは、歳は自分とほとんど変わらない。
そして、目が見えないのが不思議なくらい普通のハンサムなのだ。
目が見えない事と容姿は関係ないと言えばそうなのだが、ジュンの中のイメージでは、それは明らかに違っていた。
障害者の持つ陰り。
それはどうしても、どこかに出てしまう。
実はジュン自身、その事を良く知っているつもりだった。
ジュンの弟もまた障害者だったからだ。
弟は交通事故で片足が不自由になり、今は義足を使う生活なのだが、その弟も、事故からの数年は、明るくしていてもやはりどこかに陰があったものだ。
それが、このイ理事は失明から2年。
まだまだ辛い最中にいる筈なのに、その漂わせてる雰囲気は、それでは無かった。
「イ・ミニョンと言います。この度、米国マルシアンの理事として働くことになりました。どうぞよろしくお願い致します」
綺麗な韓国語と、流暢な英語で、彼はそう切り出した。
そして、簡単な挨拶を済ませると、彼はジュンの横を通って、窓際の自分の席に着いた。
手を引かれ、自分の机のすぐ目の前に座るその男性を、ジュンはじっと観察した。
その行為は甚(だ失礼に当たると分かっていても、あちらからは見えないと思うと、安心してしまうのが人間だ。
ジュンは仕事をする振りをしながら、飽きるまでそれを続けようと思った。
が、秘書から部下の名前や、机の配置の説明を聞いている姿をいつまで追っても、それは飽きることが無く、そればかりか、ジュンは時々、仕事の手を止めて彼に見入っていた。
それは好奇心だったのか、と言われればそうなのだが、それ以上にイ・ミニョンというこの男性にジュンは深い興味を持ったのだ。
秘書が説明を終え、ソン社長が再び現れると、理事のサポート役であるジュンの名前が呼ばれた。
「リ・ジュン室長ですね、どうぞよろしくお願い致します。米国での仕事は初めてですし、僕の目のこともあって、至らないこと事も有ると思いますが、力を貸して頂ける事、有りがたく思います」
「いえ、こちらこそどうぞよろしくお願い致します」
自分を見ているようで、見ていない、そんな曖昧な視線。
その空間を共有する時の、切なさに似た胸のざわつき。
ジュンはそれが何なのか、この時はまだ考えるつもりも無かった。