巡り逢う理由 【3】




主がいなくなった部屋にも、残り香はちゃんと存在して、それはユジンを優しく迎える。

ジュンサンと同じシトラスの香り…
それが浅い呼吸をするユジンの寝顔を幸せにしていた。

明日が良きに日なるように…、それがユジンの願いだった。
その朝が、今、明けようとしている。

「おはようございます」
「おはよう、ユジンさん」
ミヒは簡単な朝食の用意をすると、起きてきたユジンをダイニングで出迎えた。

クロワッサンの芳ばしい匂いが、朝の光の中に溶けて、そこはまさに米国の朝。
その中で2人は、言葉少なに、さりとて、刺々しくもない場を保っていた。

「私ね、ユジンさんがヒョンスのお嬢さんだって知って、父親似のあなたを見た時、本当に懐かしく思ったのよ…。
だから、これからも、その気持ちだけを持って、ユジンさん、あなたを見ていたいと思ってる。
私の好きだった、ヒョンスの可愛いお嬢さん、ただそれだけを思って、それ以外は忘れることにしたの…
ジュンサンをあれだけ真剣に愛してくれたあなたに、私が返せる気持ちはそれくらいしかないけれど、それで私を許して欲しい」

それは、そんな中、ミヒが食後のピアノを弾いていた時に、ポツリと漏らした言葉だった。
その横顔を、ユジンは温かな目で見つめている。
ユジンもまた、ミヒのピアノを聴きながら、ジヌの手紙に記されたミヒの過去を思っていたのだ。
その過去をミヒは忘れると言う…。

ユジンはその気持ちを、素直に受け取ろうと思った。
「ジュンサンのお母さん…、私も今度から、こう呼ばせて頂きますね…」
その言葉は、ミヒの手が再び動き出す前に、そっと風に乗ってミヒの心に届いていた。

―――――

レオンの車は、助手席に座るのがちょっと気が引ける位、どこもかしこも黒くて大きい。
それは、一見して、危ない車だと主張しているようなものだ。
でも、運転しているレオンは我関せずという顔で、時にアメリカンジョークを交えて、ユジンを笑わせている。

「ユジンさん、ちょっと寄り道しませんか?」
そんなレオンが、ミニョンのいるオフィスに向かう途中で、そう提案した。
そして、ユジンの曖昧な返事を聞くと、セントラルパークをぐるりと回って、小さな教会に車を着ける。

「私の好きな場所なんですよ」
レオンは木漏れ日のあたる小道を歩きながらそう言うと、ステンドグラスが美しい礼拝堂の扉を開け、ユジンに笑顔を向けた。
インテリアデザイナーでもあるユジンは、その笑顔の先を興味を持ってのぞき込む。

「まぁ…」
「どうですか?素敵でしょう?」
ユジンはレオンの言葉に頷くと、開いた扉から、ダークレッドの絨毯の上を導かれるように、祭壇に向かって歩き出した。
そこは白を基調とした壁と、その壁を大きく切り取ったような窓が印象的な、光と緑がバランス良く調和された空間だった。
正面の両端にある窓からは、外の芝生と樹木が絵のような景色を見せ、その真ん中で木目に細かい細工の彫刻が掘られた十字架と優しい顔のマリア像が、厳粛な姿を見せている。

「夜になると、間接照明の灯りで、また雰囲気が違うんです…」
レオンは興味深そうに辺りを見渡しているユジンの横まで来ると、そう付け加えて座席に座った。

「私の両親は米国に住むだけあって、発展的でした。
そして文化人であった彼らは、私の名前からも分かると思いますが、ヨーロッパも好きでしてね。
そんな影響もあって、私もヨーロッパ行く機会が多く、ミニョンが建築の仕事を目指してからは、彼にも留学を勧めたんです。
よく見ると、この建物のあちこちに、フランスの香りがしませんか?」
「それじゃあ…」
「そう、この教会を設計したのはミニョンです。しかも、目が見えなくなって、最初に手がけたのが此処でした。
実は私がやらせたんですよ。彼を仕事に復帰させるテストとしてね。
ただ、実際問題として、彼に図面は引けないので、彼が口頭で言う図式を私が図面に起こしはしました。
見えないことで、感覚がより鋭くなっていたのか、その正確さには私も驚いたものです。
私が細かい説明を求めると、木立の位置と窓の位置を、まるで見えているかのように答えるんですから…。
どうもミニョンは、私の話を聞いてから、この場所に何度も足を運んでは、イメージを膨らませていたようです。
彼の頭の中には、設計図も立体図もちゃんと出来ていたんですね」

ユジンはレオンの説明を聞きながら、ミニョンが想像だけで作ったこの建物に、自分の波長が同調する不思議を心地よく思っていた。
自分が2度目に出会った、建築家としてのミニョンが此処に生きている。
それは涙が出るほど、ユジンには嬉しいことだった。

「ところでユジンさん、ミヒからミニョンの事について何か聞きましたか?」
レオンは説明を終えると、感慨深げなユジンに自分の横の座席を勧めながら、何気なくそう尋ねた。

「いえ、特に何も…」
思い当たる事がないユジンは、レオンのその言葉に首を横に振る。

「そうですか、ミヒは言えなかったのですね」
ユジンの返事に、声のトーンが低くなったレオンは、そこで、初めて深刻そうな顔を見せた。

「ミニョンが韓国から米国に来て、この春で3年が経ちます。
戻った当初は、あんな事になったのですから、確かに見えない事への恐怖でミニョンも心身が弱っていました。
が、それも最初の半年ほどで、その後は点字を覚え、側にいるミヒを逆に気遣うほど、精神的に強くなっていったのです。
私はミニョンしか知らないし、彼の合理的な一面は理解していたから、彼なりに割り切ったのだと思ったのですが、それはちょっと違うのかも知れないと、しばらくして思うようになりました。
記憶を無くす前のミニョン、つまり彼がジュンサンと呼ばれていた時の事は、ユジンさんの方がよく知っているでしょう。
今の彼は、そのジュンサンで有って、ミニョンでも有るはずのに、どうも私にはその事が感じられない。
つまり、ミニョンは、自分の中の何かを隠すようにしながら、今の自分を作り上げているのではないか、と言うことです。
この事をミヒに話した時、ミヒも同じような事を感じていたと言っていました。
ミニョンは、自分で虚像を作って、完璧な自分を演じているんじゃないか?とね…」

完璧な自分を演じる…
それを聞いたユジンは、不可能な家で再会したジュンサンを呼び起こした。
ジュンサンはあの時、何を感じたのだろう?
もしかしたら、そうやってミニョンを演じている自分を、ジュンサンに戻れない自分を、(さげす) んでいたのではないだろうか?

「理由はミヒにも私にも分からない。
でも、彼がそうやって、非の打ち所のない息子を、そういう自分を演じて生きていく事が、良いことだとも思えないのです。
ミニョンは、もしかしたら、ジュンサンという本当の自分を認めていないのかも知れない…。
だから…、私達は、ミニョンが、彼自身を解き放す方法を考えました。
荒療治かも知れないけれど、彼はもう一度、1人になって自分を見つめ直す必要があるのです。
たぶん、今頃、会社でミニョンはその辞令を聞いているでしょう。きっと、早々に電話が有るはずです。
そうしたら…」

ユジンはレオンが話す言葉の続きを、信じられない思いで聞いていた。
別れても、離れても、また同じ場所で巡り逢う。
それは私達の未来に、きっと繋がっているのだ。