戻るべき場所 【2】
ポラリスの黄色いドアの前に立つと、懐かしさがこみ上げてくる。
学校を卒業してから、先輩のジョンアさん達と相談して決めた会社名のポラリスには、自分を迷わせないで導いてくれる道標であれという想いが込められていた。
もちろん、ユジンにとってはそれだけではなく、ジュンサンとの思い出も、その中に生きている。
だから、この場所に来ることは、彼の導きでもあるとユジンは思っていた。
季節が移り変わっても、同じ位置で変わらずに自分を見守っていてくれる、ポラリス。
そんな風に此処だけは、以前と何も変わらずにいて欲しい。
ユジンは、そんな祈りを込めるような気持ちを胸に秘めながら、ゆっくりと重いドアに手を掛けた。
「こんにちは」
3年前と同じ場所で机に向かっているジョンアを見つけると、ユジンは、まるで、営業に来た業者のように声を掛けた。
その声を聞いて、ジョンアが面倒くさそうに顔を上げる。
が、次の瞬間、それは驚きに変わり、ジョンアは、ニコニコしているユジンを前に、目を白黒させたまま、ぽかりと口を開けていた。
「ユジン…?ユジンなの?」
しばらくして、ジョンアはやっとそれだけ声にした。
でも、相変わらず、目の前のユジンをまだ信じられないという様子で、じっと見上げたままだ。
「お久しぶりです、ジョンアさん」
ユジンはそんなジョンアを安心させるように、とびきり明るい声を出した。
「まぁ、ユジン!ユジン!本当にユジンなのね!
もう、あなたったら、フランスに行ってから何の連絡もよこさないから、どうしてるのかとっても心配してたのよ。
それなのに、現れるときは、こうして突然なんだから…」
「すいませんでした、ジョンアさん…」
息を吹き返したように、椅子から立ち上がったジョンアに、ユジンは申し訳なさそうな顔をして、ぺこりと頭を下げる。
「まったく、もう…」
ジョンアはあきれたとばかりに、そんなユジンを見つめたが、それでもその目には再会の嬉しさが滲んでいた。
「それで、こっちにはいつ戻ったの?」
「一昨日です」
「昨日は実家に?」
「はい、そうです」
「お母さん喜んだでしょう?」
「はい、それはもう…」
「もう、ずっと韓国にいるのよね?」
「はい、います」
ユジンはジョンアの矢継ぎ早の質問に、苦笑しながらも丁寧に答えた。
その質問の早さに、ジョンアの気持ちが伝わってくる。
「で、どうするの?」
「え?」
「仕事よ、仕事。生活していくには仕事しなきゃね。それともフランスでいい男でも見つけた?」
「それが…」
ユジンは、苦笑いの度合いを高めて、首を横に振った。
「それが…、いい男が見つからなかったので、仕事の方を探さなきゃと…」
「じゃあ、決まりね」
そこまで話すと、ジョンアは含み笑いをしながら受話器を取った。
「あ、スンリョン、どう調子は?…そう、それなら良かったわ。
じゃあ、今日は早く仕事終わってね。…え?、急には無理?無理でも何でも、終わらせるのよ。
今日はね、これから新人歓迎会があるんだから。
そうよ、凄腕の新人なの、美人のね、どう?、終わらせる気になった?…そう、じゃあ、早く事務所に帰ってきてね、待ってるから」
ユジンはジョンアの声を、瞳を潤ませながら聞いていた。
そして、受話器を置いたジョンアに歩み寄ると、そっとその肩に頭を乗せた。
「お帰りなさい、ユジン…」
ジョンアの声は、今日一番の優しさだ。
「…ただ…いま…ジョンア…さん」
そして、涙声のユジンの返事を、ジョンアは両手で抱きしめた。
飛行機に一人で乗るのもだいぶ慣れたな…。
ジュンサンは、これで何度めかになるフライトに、心持ち余裕を持って座席に座った。
そんな様子を、客室乗務員は優しい視線で見守っている。
彼女は、自分の座席のすぐ前にいる、まだ若い青年のサングラスの奥の瞳が、見えてないことは知っていたが、必要以上には手を貸さない方がいいと思っていた。
杖も持たず、こうして気丈に振る舞っているのだ。
それは彼のプライドと自信がそうさせている、彼女はそう判断していた。
日本の学会では、自分のコンセプトが上手く伝わっただろうか?
ジュンサンは座席に着くと、昨日終わったばかりの学会に思いを巡らせた。
設計者としての能力と技術はあっても、今の自分には表現の仕方に限りがある。
その事を、いかに米国で準備してきたとはいえ、反応の読みとれない聴衆に対しての発表は、やはり不安が付きまとっていた。
その結果がどうだったのか、真の感想を聞きたい…。
だが、今の自分の周りには、ちゃんとした意見を言ってくれそうな人は一人もいなかった。
「見えないのに、これだけ出来れば十分ですよ」
誰もが、そう言うだけだ。
その点、これから向かう国にいる先輩は、ユーモアを交えながら、核心を突く答えを言ってくれる。
その人物評価は、大学で一緒だった時も、マルシアンで次長をしていたときも変わらない。
頼れる先輩であり、大切な友人だ。
そのキム次長に会うのが、今から楽しみでならない。
だが、母国である韓国行きの飛行機に乗った理由が、その懐かしさだけじゃない事を、彼は知っていた。
此処まで来たのだから、ほんのちょっと寄り道するだけだ。
そう、言い訳じみた理由を思い込みたい自分が、悲しくなるくらいに…。
「当機はまもなく仁川(インチョン)国際空港に到着致します。
乗客の皆様、安全の為にシートベルトをお締め下さい」
ジュンサンは、アナウンスを聞くと、シートベルトに手を掛けた。
数日前に、同じアナウンスをユジンが聞いたことを、知らないまま…。