戻るべき場所 【3】




「ゲートを出て直ぐの椅子ですと、こちらになります。お迎えの方は来ていらっしゃるでしょうか?」
ジュンサンの腕を誘導するように持っていた空港の案内係は、目的の場所にくると心配そうな声を上げ、彼をそこに座らせると、キョロキョロと辺りを見渡し、小さなため息を漏らした。

「大丈夫ですよ」
ジュンサンがその様子に、安心させるべく声を掛ける。
「とても面倒見のいい先輩なので、きっと僕よりも早く空港に着いて、見逃さないように僕を捜してくれていますから…」

「そうですか。それならいいのですが…」
返事の声は、まだ心配そうだったが、それは仕事の経験の浅さ故だろうか。

「理事!」
そうこうしているうちに、後ろの方で聞き覚えのある声がした。
その声で、ゆっくりと立ち上がったジュンサンが後ろを振り向く。

「ああ、やっぱり理事だ。久しぶりですね。髪を切ったんですか?なんだか若くなったような気がしますよ」
キム次長はたぶん、あの人懐っこい笑顔だったのだろう。
その弾んだ声で、ジュンサンはこの地に戻った事への安堵を感じていた。

「ご無沙汰してました、キム次長。少しの間、お世話になります」
ジュンサンは前を向いたまま、声のする方に手を差し出した。
その手をキム次長の手が握り返す。
暖かな温もりが人心地を呼ぶ。

だが、この時、彼は笑顔を作りながら、内心覚悟を決めたていた。
そう…、此処には、ついでに寄ったのではないのだ。
見定めなければならない現実を、この地に立った限りは見なければならない。
それは、自分の人生に区切りを付ける為、そして、未来を生きる為に必要な事だった。

空を彷徨う瞳がキム次長によって引き寄せられると、ジュンサンはその肩越しに懐かしい空気を吸い込んだ。
そして、長かった惜別を思いながら、ゆっくりとその息を吐き出した。

「美人の案内係でしたね。理事はやっぱりラッキーですよ」
キム次長の口調は3年前と変わらない。
今でもプレーボーイだと思っているかのようだ。

「なんだ、そうでしたか。ちゃんと見られなくて残念です」
ジュンサンはそんなキム次長の言葉を受け、本当に残念そうに言うと、フッと声を出して笑った。

「今も、やはり、人の輪郭ぐらいしか分かりませんか?去年、米国に私が行ったときには、もう少しよく見えるようになるかもしれないと聞いたでしょう。だから、どうかなと思ったんですが?」
「それが思ったより再手術の成果が出なくて…。光の眩しさは感じるんですが、それ以上は、やはり無理でした」
その声には、惜しい気持ちはなかった。
事実は事実として受け止める事、それはこの3年間でしっかりと学んだことだ。

「理事、でも仕事では、相変わらずいい腕成らしているじゃないですか。聞きましたよ、昨日の学会も評判よかったそうですね。片腕のリ室長との息も合ってるようですし、これからの活躍も期待出来ますね。
どうですか?そろそろ、こちらに戻って、また、マルシアンの理事として仕事しませんか?」
「こちらはキム次長が上手くやっているじゃないですか。あ、そういえばさっきから僕、キム次長って呼んでますが、キム理事だったんですよね、失礼しました」
「いえ、理事に理事と呼ばれるのもなんだか…、それに正確には理事代理ですから。次長の方が性に合ってるし、次長でいいですよ。それより理事はイ理事で、いいんですよね。もしかして、また変わりました?」
「僕もイ理事でいいですよ。僕はイ・ミニョンですから、カン・ジュンサンはニックネームとでも思ってください。戸籍がイ・ミニョンなんですから、混乱を起こさないためにもその方がいいんですよ」
「でも親しい人は、カン・ジュンサンと呼びたいんじゃないですか?」
「…」

返答の代わりの苦笑い。
それをキム次長は、きっとウインクでもしながら、軽く流しているのだろう。
それにしてもキム次長は、どうして、こういつも、何気なく、答えられないような質問をするのだろうか。
この国にいて、カン・ジュンサンと呼びたい人。
それは今更、面と向かって会えない人達ばかりかもしれないのに。

「もうすぐソウルに入りますが、ちょっと一休みしますか?」
キム次長の声に頷くと、車はなだらかな坂を下り始めた。
木の香りからすると、ここは公園らしい。

「何か飲み物でも」
ベンチに座ると、キム次長はすぐにそう言って歩き出した。
こんな所は前と少しも変わっていない。

「ホテルは以前、イ理事が滞在していた、同じホテル、同じ部屋にしておきました。その方が家具の配置とか部屋の間取りとか分かると思って」
少し離れた所から、キム次長の声がする。

「ありがとうございます」
なので、返事は心持ち大きな声を出した。

「それと、昨日、本社から連絡があって、私もイ理事と同行して米国に来るように言われました。話があるんだそうです。なんだか怖いですね。ソン社長の大きな声を聞くと、心臓に悪くて…」
缶の落ちる音が2つ、どうやら自動販売機はそんなに遠くないらしい。

「先輩でもそんなことあるんですか?」
近づく足音に笑いながら答えると、程なく、隣にキム次長の座る気配がした。

「ああ、そうだ。日本での学会の結果は資料と一緒にすぐに米国に送るそうです、だから私たちが行ったらすぐに読めますよ」
「そうでしたか」
缶を開ける音と共に、コーヒーの微かな匂いが漂う。

「出発は明日じゃなくて、明後日、でしたね。久しぶりの帰国だし、したいこととかあります?何かあるんでしょ?」
コーヒーをごく普通に手渡したキム次長は、ごく普通にそう尋ねた。
それが何だかありがたい。

「それが…、行きたいところがあります」
それは準備してあった答えだ。

「どこです?」
「僕が先輩に頼んで建ててもらった家です」
「イ理事、もしかして疑ってますか?ちゃんと設計図どおりかどうか確かめたいんでしょう?…あぁ、そうだ、あそこに行ったら、去年、私がプレゼントしたものが壁に掛けてありますよ。イ理事の大好きなやつ」
「え、そうなんですか?何だろう?楽しみですね」
其処は、ずっと行きたかった場所だった。

「それと…」
「まだ、他に?」
「ええ…」
そう言って躊躇いがちに口に出した住所。
其処は、いつか行かなければならない場所だった。