僕が僕である事 【2】




「イ理事は何処に消えちゃったの?」
ジュンは受話器を降ろすと、大きなため息をついた。
内線電話であちこちの部署に所在を確かめても、「こちらには、いらっしゃいません」のオンパレードばかりで、(よう) としてミニョンの行方はしれない。

「もしかしたら、出掛けたのかしら?」
これだけ探していないとなると、そうかもしれない…
ジュンはもう一度受話器を取ると、受付の内線番号を押した。

「あの…、イ・ミニョン理事はお出掛けになりました?…それで、行き先は聞いてませんか?…そう、聞いてないの、分かったわ、ありがとう」

行き先も告げないで、出掛けるなんて…
ミニョンと仕事をしてから1年が経つけれど、こんな事は今まで1度も無かったはずだ。
目が不自由なミニョンは、仕事中も仕事が終わってからも、出掛ける時はいつも自分を呼んでくれた。

「後は携帯電話か…」
ジュンは机の端に置いてある携帯に視線を向けた。
が、あんな話のあった後だ…、ミニョンにだって、1人で考えたい事があるのかも?
そう思うと、そっとして置いてあげたい気持ちも無くもない。
そうやってさんざん考えた挙げ句、ジュンは結局、ミニョンに連絡を取るのを止めた。
世話焼き女房みたいな真似は、自分には似合わないだろう。

「夜には家に帰るだろうし、会社帰りに寄ればいいか…」
ジュンは景気付けのワインでも買って、ミニョンのアパートメントに寄ろうと思った。

これは左遷じゃなく、栄転なんですよ…
私も一緒なんだし、2人でまた頑張りましょう…
そう言えば、きっとまた、明るい笑顔になる。

ジュンは窓際に近寄ると、窓ガラスに自分の顔を映してニコッと笑ってみた。
「さて、私も練習、練習。() ずは私の不安を消さないと…」
ミニョンの勘の良さを誰よりも知っているジュンは、そう自分に言い聞かせるのだった。

――――――

「雨よ、ジュンサン…」
教会の外に出たユジンは、いつの間にか雨の降り出していた空を見上げて、恨めしそうな顔をした。
「ユジン、これを着て…」
それを聞いて、ミニョンは着ていた春物の薄いコートを脱いでユジンに渡す。

「あなたが、濡れちゃうわ…」
「僕は家に行けば着替えがあるから大丈夫。ここからなら車で10分位だし。
この道路を左に行って、最初の曲がり角を曲がって少し行けば大通りに出るから、そうすればタクシーが捕まるよ」
「分かったわ、じゃ、行きましょう」
ユジンはコートを羽織るとミニョンの手を取って、言われた道を少し早足で歩き出した。

「ジュンサン、早くない?大丈夫?」
「大丈夫だよ、ユジン。慌てん坊の君だけど、こんな時は頼りになるね」
「何よそれ…。あっ、ちょっと待って、そこ、ちょこっとだけ段差があって下がるわ」
「了解。ありがとう。ほら、頼りになるだろう?」
「それって、褒められてるの?何だか、単純にそうとも受け取れないけれど…、まぁ、いいわ…」
一旦、立ち止まったユジンは、強くなってきた雨を見て再びミニョンの手を引く。

「大通りが見えてきたわ!」
ユジンは曲がり角の先に、車の往来を認めると歓声を上げた。
すると、その歩みも自然と早くなる。
そのユジンに釣られて、ミニョンも大きく足を踏み出し、いつしか2人は走り出していた。

「まるで、高校生の時みたいだった…」
大通りに出た所でユジンが止まると、ミニョンは息を整えながら、雨で濡れた顔に笑顔を浮かべた。
「えっ?」
ユジンは、ハアハアと息を乱しながら、そのミニョンの顔を見つめる。

「高校生の時、僕達、学校を抜け出して湖に出掛けただろう。
そしたら、最終の船に乗り遅れそうになって、こうやって2人で走ったじゃないか。
ユジンは『待って〜!!』って、大声を張り上げてさ…、転がるように薄暗くなった小道を急いだっけ。
それが、もう一度2人で走れるなんて…。こんな日は二度と来ないと思ってた…」

ユジンだって、あの時の事を忘れるわけがない。
今だって、ジュンサンと過ごした数少ない思い出として、心の中でちゃんと覚えてる。
それを思い出してくれたことは嬉しい。でも、そんな風に決めつけないでジュンサン…。
ユジンは胸に小さな痛みを感じていた。

そうしてる間にも雨は降り続く。
ユジンは、頬に落ちた涙の代わりの雨をグイッと拭うと、ミニョンに声を掛けた。
「待っててね、今、タクシーを拾うから…」



賑やかな街並み。小さな公園。洒落たカフェ。
タクシーを下りてから、ユジンの手を引いて少し先を行くミニョンは、それらの前を手慣れた様子で歩いていく。
足元の点字ブロックの上を歩いているとはいえ、それは迷いの無い歩みだった。

「やあ、ミニョン!今日は早いんだね?」
「ミニョン!明日もパンを届けるから!」
そして、その途中で掛けられるこんな声にも、ミニョンは空いてる方の手を挙げて、これまた手慣れたように返事を返す。
それは、目の不自由さを感じさせない、ごく普通の生活。
ユジンはそれを見て、ジュンサンが自分と別れて過ごした10年の間、ミニョンとして生活していた頃を想像していた。
そう、ここは米国、ミニョンを育て、ミニョンが育った街なのだ。

アパートメントに着いてからもそれは続く。

「どうぞ…」
ミニョンの声に従って部屋に足を踏み入れたユジンは、そのキチンとした空気に触れ、何かを感じた。

「タオルは此処にあるから…」
そう言って、クローゼットの端の扉を開けて、最初の一枚をユジンの居る方に差し出した時も堂々としていた。
ユジンが居るのに、濡れたセーターとシャツを脱ぎだして、目のやり場に困るように慌てさせたのも、彼らしい。

「こんな時は、温かいミルクを飲むと心まで暖まるよ…」
マグカップに入れたミルクを勧める、その屈託のない笑顔は誰?

あぁ、私は彼を知っている…。
それは、ユジンが知ってる、イ・ミニョンだった。
あの大学路(テハンノ)で見かけて、マルシアンの事務所で息が止まる様な驚きの中で見つめた、イ・ミニョンだった。