僕が僕である事 【3】
私が知らないミニョンとしてのジュンサンの10年。
それは私の想像出来ない世界だった。
でも、こうして目の前でその姿を見せられると、やはりそれは偽りではなく、ちゃんと存在していたんだと改めて思い知らされる。
私がジュンサンを記憶していた10年の歳月と同じだけ、ジュンサンはミニョンを記憶していた。
そして、それは紛れもない彼の人生の一部として、記憶が戻った今だって、生きているのだ。
自分がジュンサンと呼び、ジュンサンとして見ているのは、ミニョン。
それはユジンに混乱を与えた。
彼が誰であろうと、同じ1人の人間なんだから、そんな事は関係ない…、自分はずっとそう思っていた筈だ。
でも…、それは2人が彼の中にいてこその事。
ジュンサンがいないミニョンも、ミニョンがいないジュンサンも、それは本当の彼ではない…。
ユジンは目の前で温めたミルクを飲んで穏やかそうにしている彼を見て、ツーっと涙を零していた。
レオンやミヒが感じていた違和感はこれなんだ。
「…
ミニョンは、もしかしたら、ジュンサンという本当の自分を認めていないのかも知れない…。
だから…、私達は、ミニョンが、彼自身を解き放す方法を考えました。
荒療治かも知れないけれど、彼はもう一度、1人になって自分を見つめ直す必要があるのです。
たぶん、今頃、会社でミニョンはその辞令を聞いているでしょう。きっと、早々に電話が有るはずです。
そうしたら…、ユジンさん、ミニョンをお願いします。
その辞令により、彼は再び、韓国のマルシアンの理事に戻る事になるのです」
レオンはそう言って、私に頭を下げていた。
でも、私にいった何が出来るだろう…。
手が届く距離にいるジュンサンが、こんなに遠く感じられる。
それは離れていた時より辛いのだ。
「ユジン?どうかしたの?」
視線が合わないミニョンの顔をぼんやりと見ていたユジンは、その声で我に返った。
相手の様子が見て取れないミニョンは、静かな時間が心配なのだ。
「ううん、何でもないわ…」
心の動揺を見透かされないように、ユジンは細心の注意を払う。
「温かいミルク飲んだら、ホッとしたのよ。あなたにも会えたし…」
「それならいいんだけど、静かだから気になって…。ところで、ユジンの荷物は母さんの所なの?」
「うん」
「じゃあ、荷物を取りに行かないと…」
「えっ?」
「えっ?て、今夜は僕の所に泊まるんだろう?」
「…」
ミニョンには見えないが、ユジンはそう言われて真顔で固まっていた。
何か言わなくちゃ…
でも、そう思っていても、声が出ない。
「…アハハ、冗談だよ、冗談。
母さん達の手前もあるし、僕もこの間のようには出来ないよ。
ちゃんとユジンを母さんの所に送り届けるから、そんなに息を呑まなくても…。
でも、ユジン、<不可能な家>では積極的だったのに、やっぱり女の子なんだ、男の僕から誘われると躊躇するんだね」
それは本当に冗談のつもりだった。
静かなユジンを笑わせようと、ちょっと悪戯心が動いただけ。
「まったく、もう…そんな冗談、品がないわよ」
だからすぐ、ユジンのそう答える返事が返ってくると思っていた。
が、それを見つめるユジンは、やはり何も言えないでいた。
言葉を探そうと思っても、頭がちゃんと働かない。
「ごめん、そんなに驚いた?」
ミニョンはこの時になって、ユジンの様子がおかしい事に気が付いた。
席を立って、ミニョンがこちらに近づいてくる。
雨に濡れた後に乾いてきたミニョンの髪は、少し毛先がカールして、それは風になびくようだ。
どこから見ても、完璧なミニョン…。
ユジンは、背(けられない現実が目の前に迫ってくる緊張感を感じていた。
「…そう言えば、ユジンは冗談が通じない子だった。
何を言っても、君は身を固くして、いつも真面目に受け取っていたね。
亡くしたジュンサンに焦(がれていた君は、ジュンサンに似たミニョンを受け止めかねていたんだろう?
だから、ミニョンが言う冗談は、ジュンサンを探し求めていた君を最後まで笑わせる事が出来なかった…」
そこには、先ほどとは打って変わった、寂しそうな顔のミニョンがいた。
「ユジン、僕が誰だか分からなくなった?」
「違うわ…」
「僕をジュンサンと呼べないんだろう?」
「違うわ…」
「僕から離れたい?」
「違うわ…」
ミニョンの手がユジンに触れる。
その手は体を伝って、小さく首を振り続けるユジンの頬を両側から包んだ。
「もういいんだよ、ユジン…、僕だって僕が誰であるのか分からないんだから…」
その一言は、ユジンの涙を溢れさせる。
と、同時に、ユジンはミニョンを抱きしめていた。
「愛しているのよ…」
「分かってる…」
ミニョンは自分の手に触れたユジンの涙に気が付くと、それを指で拭い、髪を撫でた。
どうして、自分は愛する人を苦しめてしまうのか…
「ジュン…」
ユジンは苦悩するミニョンに堪(らず声を出す。
が、ミニョンはユジンにこれ以上喋らせないようにその唇を塞(ぐと、背中に回した腕に力を込めた。
このまま2人で溶けてしまおうか…
そうしたら、僕らは1つになって、魂の中で分かち合える。
名前なんて、人格なんて、どうせ作られた物。
それをはぎ取ってしまえば、触れあう肌は、偽ることを知らないはずだ…
僕達は、ここから始めればいい。
そうすれば…
ミニョンがそう思った時、玄関のチャイムが鳴った。
それは張りつめた空気を一瞬にして消し去る。
「誰か来たみたいだ…」
ユジンが見つめる中、ミニョンはユジンの手を離すと玄関に向かった。
「どなたですか?」
「イ理事、ジュンです。お帰りになっていたんですね」
ミニョンはジュンの声を聞くと、鍵を外して、ドアノブに手を掛けた。
「ワイン買ってきたんですよ!一緒に飲みませんか?」
ミニョンの姿を見て、ジュンは元気の良い声を響かせる。
所在が分かったミニョンに、本当なら抱きつきたい気分だ。
でもその気分も、玄関先の女性物の靴を見つけると一変した。
ジュンの瞳が、目の前のミニョンから奥に続く部屋に向かう。
そこには、美しい人がいた。
それが誰なのか、ジュンはまだ知らない。
そして、ジュンを見つめるユジンも、彼女が誰なのか知らなかった。