僕が僕である事 【4】




キュッ。キュッ。キュッ。
スニーカーの底が、雨に濡れた歩道を踏む音がする。

ジュンはわざとその音が鳴るように歩いていた。
前を向いて。足を大きく踏み出して。
そうやっていないと体の力が抜けてしまいそうだ。

「ごめん、来客中なんだ…」
ミニョンが申し訳なさそうにそう言った彼女は、自分と違って楚々(そそ)とした美しさを持っていた。

誰なんだろう…
そう思う気持ちは、胸の奥であらぬ想像をかき立てる。
なぜなら、雨の降る中、静かな部屋で見た2人は、他人が入り込めないような空気の中にいたのだ。

ため息が漏れる…
それは吐き出しても、吐き出しても、新たな痛みを生んでいた。



「ワインをもらったよ…。きっと彼女、会社から行き先も告げないで居なくなった僕を、心配して来てくれたんだ」
「彼女って?」
「あ、そうか、ユジンは知らなかったね。彼女はリ・ジュン室長。会社で僕のサポートを主になってしてくれている」
「サポート?」
「うん、点字も出来るし、仕事も出来る、明るくてしっかり者だ」
「そう…」

でも、きっとそれだけじゃない。
彼女の熱を帯びた瞳は、真っ直ぐに自分を見ていた。
それは、同じ心を持つ物同士が分かる厄介な感情。
が、ユジンには、その事よりも今のジュンサンの状態の方が心配だった。
『僕だって僕が誰であるのか分からない…』それは生きる土台が無いようなものだ。

「もう、こんな時間か…」
ミニョンはワインをテーブルに置くと、音声時計をポンと押して、告げられた時間を確認した。

「ユジン、夕飯は母さんの家に行ってから一緒に食べよう。それでいいよね?」
「うん」
ユジンの返事を聞いて、ミニョンは携帯電話からミヒに連絡を入れる。
そのやり取りを背中で聞きながら、ユジンは唇に手を触れて、思いの外強く押し当てられたその意味を考えていた。



「お帰りなさい」
玄関の扉が開くと、ミヒは待ちかまえていたよう2人を出迎えた。
その奥からは、チゲ鍋の食欲をそそる匂いがしている。

「夕飯の支度出来てるわよ」
「ありがとう、母さん」
「さあ、ユジンさんもどうぞ、人数が多いと食事も楽しいわ」
ミヒは2人揃っての帰宅に、上機嫌な様子だ。

それからの一時は和やかなムードの中、楽しい食事が進んだ。
ユジンも口数こそ少なかったが、笑顔でその中で馴染(なじ)んでいた。

「雨が止む様子がないわね…、ミニョンあなたも泊まっていったらどう?」
いつまで経っても雨の音が止まないのを気にして、ミヒはそう持ちかける。
「そうだね…、じゃあ、そうするよ、母さん」
ミニョンも強くなる雨音を聞いて素直にそれに従った。

しかし、偶然となったこの夜の宿泊は、実はミニョンにとって予定していた行動だった。
ミヒから言われなくても口実を作って、最初からミニョンは泊まるつもりでいたのだ。
そして、その目的は各人がそれぞれ自分の部屋に入った後、ミヒの部屋をミニョンが訪れる形で果たされようとしていた。

「母さん、ちょっといい?」
部屋をノックしたミニョンは、そのままミヒの返事をドアの前で待つ。
「どうしたの?」
それをミヒが断る理由もなく、ミヒはミニョンを部屋に招き入れた。

「実は、今日、会社から韓国支社に戻る辞令を受けたんだ」
ミニョンはミヒが勧めた椅子に座ると、開口一番こう切り出した。
その口調は、少しばかりのトゲを含んでいる。

「僕は正直驚いたよ。
自立して、やっとこの生活に馴染んできたのに、その僕を韓国支社のマルシアンの理事に戻そうとするなんて…。
そう仕向けたのは母さん達なんだろう…」
「ミニョン…」
「そう、僕はミニョンだ。それ以外には、もうなれない事がなんで分からないの?
戸籍も、性格も、生き方も、僕がミニョンだって言っている。
それは、僕自身がそうして生きていこうと決めたからだ。それをどうして今更…」

眉根を寄せたミニョンは、そこまで言うと言葉を詰まらせた。
髪を()き揚げて、横を向いたその顔は唇を噛み締めている。

「それがあなたの幸せだと思えないからよ…」
ミヒは(しばら)くミニョンの横顔を眺めてから、静かに、でも、ハッキリとそう答えた。

「どこか無理してるんじゃないかと、ずっとそう思っていたの。
私が作り上げてしまったミニョンを、私が否定するのも虫が良すぎるけれど、今はミニョンだけがあなたじゃ無いはずよ。
そう…、それで思ったの、あなたをもう一度韓国に戻そうって…。
きっとあなたは韓国を忘れるだけの場所にして、何もかも閉じこめてきたんでしょう」
「そんなつもりはないよ…」
「そう、じゃあ、ジュンサンの事も、ユジンさんの事も、ちゃんと向き合おうと思ってるの?」
「…」
「どう?答えられないでしょう。それは逃げてるからよ」

ユジンから逃げる…
そこまで言われて、ミニョンは顔を上げ、(せき)を切ったように話し出した。

「僕はね、母さん、3年前米国に来る前に韓国でサンヒョクにユジンを託して来た。
僕は事故の後遺症でどうなるか分からなかったし、それがユジンの幸せに繋がると思ったんだ。
サンヒョクはユジンを本当に心から愛していたし、僕の弟で、僕の為にずっと辛い思いもしていたから…、だから2人が幸せになるなら、それでいいと思ってた。
そして、実際、僕は光を失って、その判断が間違っていなかったと納得したんだ。
こんな体ではユジンを幸せには出来ない、これで良かったんだとね…。
僕はユジンから逃げた訳じゃない」

「じゃあ、こうして追いかけてきてくれたユジンさんを、あなたはどうするつもりなの?」
それは、核心をつく質問だった。
過程じゃなく、今現在の2人の関係を考えることは、ミニョンにとっても重大な意味が含まれていたからだ。
サングラスの奥でミニョンの瞳が泳ぐ。
が、それでも、ミニョンは(かたく)なな態度を崩さない。

「僕はユジンを諦めた時、カン・ジュンサンも一緒に無くした。
ユジンが僕の思い出の中にいるのなら、ユジンの初恋の相手だったジュンサンもその同じ思い出の中にいる事こそが相応しいと思ったからだ。
ジュンサンがいない僕は、ユジンにとってきっと別人だ。ユジンだって愛想を尽かすよ…」

「あなた本当にそれでいいの?」
ミニョンの顔が小さく頷く。
「じゃあ、あなたの顔色が青白く見えるのは電灯のせいだとでも言うの?」

ミヒにはミニョンの動揺が見えていた。
背中にかいているだろう冷たい汗も、渇いているだろう喉も、それが葛藤の産物なのだと…。
でも、それでもミニョンは絞り出すような声で、ミヒに訴える。

「母さん…、僕を苦しめないで…。
ミニョンとしてなら、こうして米国で生きていける。
でも、僕が韓国でジュンサンの気持ちを取り戻して、ユジンを愛しても、僕に何が出来る?
目が見えない僕は、彼女の温かな手にも丈夫な足にもなれなくて、きっと彼女の足手(まと)いになる。
そこには、ジュンサンの孤独と寂しさが広がるだけ…。
そんな姿をユジンだけには見せたくない。彼女には初恋の美しい思い出だけを残していて欲しいんだ」

ミニョンはそれだけ言うと、よろけるように立ち上がり、壁に手をつきながらミヒの部屋から出て行った。
ミヒはその後ろ姿を潤む瞳で見送りながら、心の中で祈るように呟いた。

母さんは、それでも、あなたを韓国に行かせるわ…
全てを受け入れて、全てを許した時、きっとそこにあなたの幸せが見えるから…
そして、あなたにはそうなる事が許されているのよ…