愛が試される時 【1】
ジュンサンと私が写った写真。
それはサンヒョクが守ってくれた、私達の愛の軌跡。
でも、私はこれを撮った頃の、幸せに満ちた過去ばかりに捕らわれていてはいけないんだ…
ユジンは枕元の小さな灯りの下で、2人で写っている一枚きりの写真を愛おしそうに撫でながら、そう思い直していた。
考えてみれば、私はジュンサンを忘れられず、ずっとミニョンを理解しようとしなかったじゃないか。
そればかりか、ミニョンがジュンサンであると告げてからも、その事を認めようとしないで、彼を苦しめてばかりだった。
きっと、今のジュンサンは、あの時の私と同じ…。
美しい風景も見ようとしないで、心を閉じこめて生きていこうとしているんだ。
あの時ミニョンは、そんな閉じた貝のようだった私を、いつも愛情の全てで包もうとしてくれた。
道に迷った時は手を引き、凍えた夜は抱きしめて、泣きたい時には泣かせてくれた。
ならば、今度は私が、彼の為に彼の彷徨う心を探そう…
『僕だって僕が誰だか分からない…』それは彼の心の隙間から出た言葉。
そして、あの口吻(も、私を決して遠ざけるものではなく、その隙間を埋めるべく求めた彼の心そのものなのだから。
ユジンは写真を終うと、胸の前で両手を組み、小さな祈りを捧(げた。
この先何があっても挫(けない強い心を下さい…
愛する人を見守っていく澄んだ瞳を下さい…
そして、私達が幸せになれるように、暖かな日差しを下さい…
ささやかな幸せで良いのです。
ただ、手を取って共に歩く未来を下さい…
その為になら、私は荊(の道でも歩きます。
「おはようございます。ご飯の支度を手伝いますね」
ユジンは階段をリズミカルに下りると、既にキッチンにいるミヒの隣に立って、笑顔を向けた。
「ありがとう、ユジンさん」
昨日、あれから余り眠ることも出来ずにいたミヒには、その笑顔が何よりも嬉しい。
ヒョンスの娘であるユジンが、こうして自分と隣り合って食事の支度をするなんて…
それは、3年前の憎しみに凝り固まっていた頃には、想像すら出来なかった事だ。
が、それもこれも、自分が償いと許す心を持てたからこそ、こうして実現する事が出来た。
そう…、結局、私がずっと抱き続けた憎しみと恨みの感情は、悲劇を招いただけで希望の1つも見つけられなかったのだ。
もっと早く、私がちゃんと心を開けば、こうした幸せを2人に与える事だって出来たのに…
ミヒは手を止めて、隣のユジンに目を向けた。
どうか、ユジンさん、ミニョンをお願いします…
もう、あなたにミニョンを託すことしか、私には出来ないの…
人が人を頼って生きていくことが、恥ずかしいとか相手に迷惑だとか思うのは間違っている。
それよりも、愛する人と共に生きていく事で感じられる、本当の幸福を教えてあげて欲しい。
「どうかしましたか?」
と、視線に気が付いたユジンが声を掛ける。
「ううん、何でもないのよ。ただ、ユジンさんがいてくれて良かったなって思ったの…」
それは、ミヒの心からの言葉だった。
「あの…ジュンサン、お願いがあるんだけど…」
ユジンは食後のコーヒーを飲み終えると、表情が今ひとつパッとしないミニョンに、おずおずと話しかけた。
「何?」
「今日の午前中だけでもいいの、私にこの街を案内してくれない?せっかく米国に来たんだから、セントラルパークを散歩して、自由の女神にも行ってみたいの」
「それじゃあ、おのぼりさんみたいだよ…」
「だって、行ってみたいんだもの…、悪い!」
朝から元気のないミニョンを気遣っていたユジンは、わざと憎まれ口を叩く。
すると、ミニョンはやっと小さく笑い、仕方がないな…という表情をして、こくりと頷いた。
「やった〜!ジュンサンとデート出来るなんて、今日は最高ね。じゃあ、早く行きましょう!」
ミニョンは、子供の様にはしゃぐユジンに手を取られ重い腰を上げた。
「今日は昨日の雨が嘘みたい、お日様がいっぱいで良い気持ちだわ、空気も思ったより澄んでいて。…あの芝生に寝ころんで昼寝もいいわね。ジュンサンはどう?」
「僕はいいよ…」
「あら、付き合いが悪いのね。まあ、カン・ジュンサンはそんなヤツだったけど…」
ユジンはミニョンの横顔に口をとがらすと、若い女の子のように舌を鳴らした。
でも、その顔には落胆の色は無く、それよりも目を輝かせて何かを企んでいるように見えた。
「じゃあ、ここで待っていてくれる?」
ユジンは遊歩道の脇にあるベンチを見つけると、ミニョンをそこに座らせ、自分は芝生に向かって駆け出した。
この態度の違いは何だろう?
ミニョンは光の眩しさを体中に感じながら、朝からの一連のユジンの行動を思い計っていた。
昨日のユジンは、決してこんな感じではなかった。
どちららというと僕に困惑して、オドオドとした雰囲気さえも漂わせていた筈だ。
まさか、昨日の母さんとの話を聞いていて、それで…、いや、なら尚更、こんな風にはしない。
もっと僕との距離を置くだろう。
いくら感が良くても、こんな時は表情を読み取れない事がミニョンには口惜しかった。
と、その時、頭や顔や体に触れる物があり、青臭い匂いが鼻先で広がった。
パラパラと耳元で音もする。
急いで膝の上に落ちたその異物を手に取ってみて、ミニョンはそれが若葉であることに気が付いた。
自分の上に降り注ぐ無数の葉。
「思い出した?」
驚いていると、頭上から、昼寝をしていたはずのユジンの声がした。
「あっちで剪定作業していたおじさんからもらってきたの。あなたが高校生の時、焼却場でこうして私に掛けてくれたでしょう。
あの時の、2人でいた楽しい気持ちを、あなたにも思い出して欲しくて…」
「ユジン…」
「だって、今日のジュンサン、どこか寂しそうだから…。2人でこうしていて、寂しいのは嫌。
せっかくのデートなんだから、楽しそうにしてて。私、明日には韓国に帰るのよ」
「帰る?」
「うん、ポラリスに戻ったばかりで、ジョンアさんにそうそう迷惑も掛けられないし、ジュンサンが韓国に戻ることも分かったから帰ることにしたの。
だから、今日は無理を言ったのよ。
あっ、そうだ、ポラリスでの仕事の事なんだけど、ジュンサンが韓国に戻ったら、当然、こちらにも回してくれるわよね。
そうなったら、フランス帰りのセンスの良さをバッチリ見せるから、期待していいわ…。
ただ、ジョンアさん、ここの所、マルシンアンと仕事してないみたいなのよ、スンリョンが溢(してたもの…何かキム次長とあったのかしら?
以前はあの2人割といい雰囲気だったでしょう…、やっぱり何かあって、それで…」
ユジンの明るい声が頭の上で続いている。
きっととびきりの笑顔で、楽しそうに話をしているのだろう。
白い頬が少しピンクに上気して、瞳はキラキラ輝いて、髪は太陽を反射して光の輪が出来ている。
そんな光景が頭には浮かんだが、でも、それを実感出来ないもどかしさは、喩(えようがない…
ユジン、僕が韓国に戻っても、きっと君はそんな風に、接するんだよね…
でも、僕はそんな君が眩しくて、この手に自信を持って抱き留められない事が悔しくて、冷たい態度をとってしまいそうだ…
もしかしたら、ミニョンとして振る舞うことで、いつまでも君を傷つけるかもしれない…
それは、君の未来の為にプラスにはならない。
それに、こんな僕を見るのだって辛いだろう?
君はもっと、幸せになるように別の努力をして欲しい。
神様、弱虫の僕に勇気を下さい…
ミニョンは、ぐっとお腹に力に入れると、震えそうになる唇を開いた。
「ユジン…」
僕は話を続けているユジンの名前を呼んで、その話を遮(った。
「何?」
ユジンは屈託のない返事をすると急いで僕の前に来て、顔を近づけたようだ。
その甘い髪の匂いが、僕の決心を鈍らせる。
が、今しか機会はない…そう、これから先、お互いが別の人生を歩む為には、今、言うしかない。
「ユジン、米国に来て分かっただろう?僕は13年もイ・ミニョンとしてこの場所で生きてきた。
今更、韓国に戻ったとしても、染みついてしまった生活も価値観も変えられない。
つまり、強引で、利己主義で、プレイボーイなイ・ミニョンは、君の好きだったカン・ジュンサンには、なれないって事だ。
君だって言っただろう、カン・ジュンサンとイ・ミニョンは別人だと。
だから、もう、僕の事は忘れてくれないか?
僕も、いつまでもそんな風に思われるのは迷惑だ。
僕には僕の人生がある…」
…そう話した後のことは余り覚えていない。
ただ、目の前で、今度は涙の匂いがしていた。
そして、その匂いが消えて、人の気配が消えると、今度は自分の鼻に涙の匂いが満ちてきた。
でも、僕は泣いたりしてはいけない。
それで少しでも楽になろうなんて、そんなことは僕が僕を許さない…
『ユジン…ほら、雪を降らせてあげるよ…』
そう言って、焼却場の枯葉をユジンに降らせたのは夢だった。
そう、きっと夢だ、なぜなら僕には初雪が降る冬はもう来ないのだから…