愛が試される時 【2】




「イ理事、コーヒーを置きましたから気をつけて下さいね」
「…」
「理事?聞いてます?」
「えっ?」
「コーヒーをいつもの場所に置いたので、気をつけて下さいって言ったんです」
「ああ、そうだったのか…、ありがとう」

コーヒーに手を伸ばすミニョンを見届けて、ジュンはやっと背を向けて自分の席に着いた。
『どうしたんですか?最近変ですよ?』そう言いたい言葉を飲み込みながら。

明日からの週末が明けたら、月曜には2人して韓国に行く予定になっているのだが、きっとミニョンはその事で何か考えているのだろう。
それにしても、こんな風に心ここに(あら)ずって表情をされると、詮索したくなくても、その何かを知りたくなる。
ジュンは、その何かが、自分にとっても厄介な事柄になるだろうという予感がしていた。
頼る相手がミニョンしかいない韓国に行けば、自分は常にミニョンの側にいる。
そうすれば、それは当然、自分にも関係するからだ。

それに、あれから聞きはしなかったが、この間見た女性の事も気になっていた。
東洋人だったし、きっと彼女も韓国に関係があるに違いない。
ミニョンが3年前、一冬だけ過ごした韓国の地。
確か、失明の原因となった事故もその時に()ったはずだ。
その記憶がミニョンを憂鬱(ゆううつ)にしてるのか?
ジュンには分からないことばかりだった。



「ユジン!」
ジョンアは外出先から戻ると、開口一番ユジンの名を呼んだ。
が、階段を下りてユジンの机を見ても、その呼ばれた本人の姿がない。

「ねえ、スンリョン、ユジン見なかった?」
「さっき、メールを読んで慌てて出て行ったけど…」
そのスンリョンの遠慮がちの返事に、ジョンアは眉をぴくりと動かす。

「えっ〜!!じゃあ、午前中に頼んでおいたマンションの内装の見積もりはどうなったのよ?」
「そんなこと俺に言われたって…」
「まったく、もう…。米国から帰ってから、ユジンはどうも変だわ。ミスも多いし、どこか上の空だし…」
半月以上もどこか覇気(はき)のないユジンの姿を見ているジョンアは、実はずっとその事を気に掛けていた。
でも、いくら聞いても曖昧な返事しかしないユジンを、それ以上どうする事も出来ずにいたのだ。
しかしスンリョンは、気を()んでいるそんなジョンアの気も知らずに、さらにカチンとする質問を投げかけた。

「それって、マルシアンの仕事ですよね?」
ジョンアはその言葉だけで血圧が上がりそうだ。

「ジョンアさん、どうしたんですか?あそこの仕事はもう絶対しないって言ってたじゃないですか?」
「だって、しょうがないじゃない、仕事しないと食べていかれないし。それに私だって、大元の出所がマルシアンって分かっていたらやらなかったわよ。
あんなセンチメンタル野郎が理事代理をやってる会社なんて、こんりんざいお断りだったのに…」
「センチメンタル?」
「いけ好かないって意味よ!」
嫌な記憶がジョンアの脳裏を過ぎる。あんなヤツ、顔だって見たくない。

「でも、今日、噂で聞いたんですけれど、どうもマルシアンは前の理事が戻ってくるようですよ」
いきり立っていたジョンアは、そのスンリョンの何気ない一言で急激に頭が冷めたようだ。
その顔は神妙になり、やがて、全ての意味を察したように大きく頷いた。

「前の理事?それってイ理事の事?イ・ミニョン理事、あのパーフェクト?それで…なの…、それで、ユジンが変なのね…」
「ユジン?何で?」
「もう、これだから男は嫌よ。デリカシーがないんだから…」
ジョンアは、これ以上スンリョンと話してもしょうがないと踏むと、話を途中にしてさっさと自分の席に着いた。
また、ややこしい事になりそうだ…
が、タロットカードを(あやつ)るジョンアは、冷静に事態を見守ろうと思っていた。
始まってしまう運命はどうやっても止められない…
それはカードにさえ出てしまう、決められた道なのだ。



米国から帰ってきて、サンヒョクに会うのはこれで2度目になる。
だが、1度目は会うつもりもなく会ったので、今日の様に心の準備は出来ていなかったと思う。

ある日、私は帰宅したアパートの前で大声で呼び止められた。
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには、車のドアをバタンと閉めるサンヒョクの背中が…。
どうやら、彼は春川の母に電話までして、帰国の事実を知ったらしい。

「ユジン!帰ったら帰ったとなぜ知らせないんだ!」

その時のサンヒョクの怒ったような顔が嬉しくて、私は彼がどんなに心配していたか力説するその顔を、親愛の情を持って眺めていた。
しかし、その一方で、私はサンヒョクの想いも、サンヒョクの父親の想いも、結局は何一つジュンサンに告げることも出来ず帰国してしまった申し訳なさから、サンヒョクに自発的に会う事を避けていた事を後悔した。
彼に会って、彼がそんな事を気にしているんじゃなく、私とジュンサンの未来を気にしていると分かったからだ。

それから私はサンヒョクの車の中で、ジュンサンと逢えたこと、そして、もうじき彼が韓国に来ることを話した。
だから早く帰って来たんだと、私が言うとサンヒョクは納得したようだ。
これでやっとサンヒョクの笑顔が見られる。
そう思うと、私はその日それ以上は言うまいと口を(つぐ)んだ。


そのサンヒョクから今日になってメールが来た。
「父さんの所に今日、ミヒ女史から連絡があったそうだ。来週の初めにはジュンサンがそちらに行くことになるので、よろしくって…。で、どうだろう、みんなで歓迎会でもしないか?会って話そう」

そうか、とうとうその日が来るんだ。
私はそのメールを見て、サンヒョクにもう一度会う覚悟を決めた。


「ユジン、お待たせ」
待ち合わせの喫茶店にサンヒョクは5分遅れで現れた。
今日は比較的暖かだったので白いシャツ姿だ。

「ああ、サンヒョク、呼び出してごめんね。仕事は大丈夫?」
私は急に呼び出した事を謝った。
でも、本当は謝らなければならないことは他にある。

「うん、次の打ち合わせまで、まだ2時間あるから…」
「そう、良かった。それで、あのメールの事はまだ誰にも言ってないわよね?」
「ああ、ユジンに知らせるなって言われたから、誰にも送ってない」
「ありがとう…」
「でも、なぜなんだユジン?」
サンヒョクは不思議そうだった。無理もない。端から見れば何の問題もないのだから。

「サンヒョク…、実はジュンサンは、以前のジュンサンじゃないの」
「え?」
「もちろん目が見えない事を除けば、外見は変わらないわ。でも、彼はジュンサンとして生きていない。今はイ・ミニョンとして、生活も仕事もこなしているの。
それは韓国に来ても変わらないって…。それに、私も必要ないって…拒絶されたわ…」
「拒絶だって?ユジンを?」
信じられない…サンヒョクの顔はそう言っていた。
彼は私達が米国で変わらない愛情の確認をしてきたと信じて疑っていない。

「なぜだ?」
サンヒョクは気色(けしき)ばんだ。
「彼は色々と言っていたけれど、本当の所は良く分からないわ…。私が分かりたいと思わなかったから、余計そう思ったかもしれないけれど…」
「そんな事、おかしいじゃないか!記憶を無くしてカン・ジュンサンを求め続けたイ・ミニョンが、何で今更ジュンサンを捨てて、ミニョンに固執するんだ?」
「…」
私はそれ以上説明したくなかった。
いや、彼が変わってしまったと、どう説明すればいいのか分からないのだ。

「とにかく分かった。ジュンサンが来たら、僕も会ってみるよ。みんなに報告するのはその後だ」
サンヒョクは硬い表情の私を見て、事が簡単な答えで済む問題でないと悟ったのか、落ち着いた声に戻るとそう言ってくれた。
そして立ち上がり、私の背中をポンポンと叩くと、「大丈夫だよ…余り考えるな…」と気遣うように微笑んだ。

その笑顔が張り詰めていた気持ちを刺すと、楽になると同時にグラついた心は泣きそうになる。
が、私は、込み上げるものをグッと我慢した。
もう泣かない…
帰国する飛行機の中でそう誓ったのだ。

私は決して認めない…。
彼の言葉の1つとして、それが真意であると認めない。
言葉より、私の身体と唇に残された彼の温もりが全てだと信じたい。
その気持ちだけを持って、これから先、もう一度ジュンサンと向き合おう…、そう決めたから。

今日は本当に五月晴れだ。
その澄んだ青空と同じように、私の心も清んでいる。
サンヒョクと別れてからポラリスに向かう道すがら、私はその青空を振り仰いで呟いた。
「待ってるわ、ジュンサン。本当のあなたはきっと私と共にあるのよ…」