愛が試される時 【3】




窓を開けると、入ってくる風は体にまとわりつき、もっと深く呼吸をしなさいと言う。
そうすることで、まるで細胞の1つ1つを呼び起こそうとしているみたいだ。

此処はあなたが生まれ育った母なる大地なのだから、何処よりも自然に息が出来る筈なのよ。
そう、僕の耳元で誰かが囁く。それを忘れないで…とも。

深夜に韓国に到着したその日、時差で生まれた浅い眠りの中で見た夢は、こんなメッセージを僕にくれた。
だが、僕はそのメッセージを同じ夢の中にそのまま置き去りして、再び目を閉じた。
これは呼び起こされてはいけない夢だったのだ。

だが、その一方で消えかかった意識が問う。
郷愁が僕を呼んだのか…?
だとしたら、僕にはまだ過去を呼び戻すチャンスがあるのかもしれない…


――――――


韓国に来てから今日で3日。
その間、ミニョンは平静を装いながら、その実、心の中では常に爆弾を抱えているような気分でいた。

何も起こらないかもしれないが、何か起こるかもしれない。
そのどちらをも自分は期待している…
それが分かってから、ミニョンはその不条理さを自分で笑いたい気分になったが、それは笑って終わりに出来る程簡単な問題じゃない。

何をしてるんだ…ミニョン…
ウイスキーのロックを口に運びながら、ミニョンは自分を叱責(しっせき)した。
選んだのは自分じゃないか…
そう、何度も言い聞かせる。

が、ソウルの空気は明らかにニューヨークの空気と違うのだ。
向こうで想像していた自分の強さは、この地に立ってしまうと一陣の風の前に崩れそうな気さえする。
ミニョンは正直、自分が情けなかった。
ユジンをあんな風に傷つけながら、自分自信をちゃんと律する事も出来ないないなんて最低だ。

ふぅ…
空になったコップをテーブルに戻すと、ミニョンは大きなため息をついた。

確実に過ぎる時の中で、僕はこれからずっとこうして試されて生きるのかも知れない。
そしてそれは、僕がどれだけユジンを愛しているか試す時でもあった。


「黒のスーツと薄いピンクのシャツ、それとネクタイは濃いワインレッドにしてくれる?」
ジュンはクローゼットから言われた物を出すと、それをベットの上に並べた。

「靴下とハンカチも一緒に置いておきましたから…」
「ありがとう」
シャワーを浴びてこざっぱりとしたミニョンは、ベットの上の洋服に触れるとジュンに御礼を言った。

「ところでリ室長は支度出来たの?」
「はい、お陰様で昨日ご紹介頂いたお店で洋服はなんとか買えました」
「そう良かった…」
「でも、まさかこんなに急にレセプションがあるなんて、ビックリです」
「そうだね、僕もキム次長に一昨日聞いた時は驚いたよ。
帰国した次の日、マルシアンに顔出ししたら、いきなりパーティの案内状を読み上げられて…。
でも、取引先の社長が明日から旅行で当分帰ってこないと聞いたら、納得しないわけにもいかないさ。
マンションの建設は大きな仕事だし、いきなり理事が交代したとなると、先方もどんなのが来るのか心配なんだろう。
だから、今日はレセプションとは名ばかりの僕らの品評会って事だ」

「うわっ、そんな緊張させる事を言わないで下さい!」
品評会。
ミニョンはサラッとその言葉を使ったが、何もかも初めてのジュンの心臓はドキリとする。
が、思わずそう声を上げたジュンの動揺が見えてるかのように、ミニョンは更にこう付け加えた。

「そうだ、今回の仕事の関係業者も皆来るそうだから、リ室長にはそれも全部覚えてもらわないと…、アハハ…大変だ」
まるで他人事の様に笑うミニョンをジュンは横目で(にら)んでみたが、理事のサポート役として来たからには、それは確かこなさなければならない仕事だった。
まったく、最初から本当に大変だ…
こんな着慣れない服まで着て、その上、こんな大役だなんて…
ジュンはロングドレスの裾をヒラヒラさせると、目の前で笑顔をたたえるミニョンを恨めしそうに見()った。


ホテルに到着すると、車から足を降ろした瞬間、ミニョンは堂々と胸を張る。
ジュンはその姿勢の良さをいつも感心していた。
公の人が集まる場所になればなるほど、目が見えない事を感じさせないその姿は、ジュンから見ても惚れ惚れするほどだ。
そのスーツ姿がバッチリと決まっている彼に、今日は腕を回してエスコートされる。
そう思うと、それがたとえ仕事上の事だとしても、やはり頬が緩んでしまう。

それにしても、ミニョンは本当に勘が良い。
回した腕にちょっと力を入れるだけで、方向を変え、まるで見えてるかのように歩くのだ。
これなら誰も、彼を特別な目で見ないだろう。


「イ理事、早かったですね。リ室長もご苦労様です」
レセプション会場に足を踏み入れると、ミニョンとジュンを見つけたキム次長が足早にやって来た。
今日はにやけていた顔も引き締まって、スーツ姿が決まっている。

「早速ですが、今日の招待客のリストです」
キム次長は2人の前まで来ると、一呼吸して胸ポケットから1枚の紙をジュンに差し出した。
「これからリ室長にはイ理事の片腕となって頂かなければならないので、出来るだけ早く会社名と担当者を覚えて頂きたいと思ってます。
大変でしょうが、私が紹介しますので、理事と一緒に付いてきて下さい」
「はい」
ジュンはそのリストに目を通しながら、緊張の面持ちで返事をする。

が、その横でミニョンはネクタイに手をやりながら、さも、それが窮屈だと言わんばかりの顔をした。
この対照的な2人の様子は、そのままキム次長の失笑を買う。
でも、キム次長は、目が見えなくても以前と変わらないミニョンを、内心頼もしく思っていた。
この様子なら、何処に出てもそつなく物事をこなすだろう。

「じゃあ、そろそろ回りましょうか?」
キム次長は、混雑してきた会場に取引先の社長を目ざとく見つけると2人を促した。
その言葉に従って、ジュンはキム次長の後をミニョンの腕を取って歩き出す。
しかし、その歩みも、ジュンの視線がある場所で止まると同時に突然進まなくなった。
その動かないジュンを、ミニョンが不思議そうな顔で見つめている。

あの人は、確か…
その時ジュンは自分が目に留めたある女性から目が離せないでいた。
凛としたその(たたず)まいと透き通るような白い肌。
それは確かに見覚えがある。
でも、そんな事よりも、その女性の視線の示す先が全てを物語っていた。
彼女はそこが初めから決められていた場所かのように、ミニョンを正面から真っ直ぐと(とら)えて一時も離さないのだ。

この瞬間、ざわめく会場の中で、3人の作る空間だけが静かな時を迎えようとしていた。
それが、これから始まる新しい物語の幕開けになると誰が予感しただろう…