秘密の扉 【1】
「初めまして、ポラリスのチョン・ユジンです。この度、こちらの仕事で内装を担当することになりました。
どうぞ宜しくお願い致します」
ユジンは驚きを隠せないジュンの目を見ながら、この時がまるで初対面かのように、ごく普通に挨拶をした。
その瞳はジュンと違って、この瞬間が来るのをずっと前から知っていたかのように落ち着いている。
いずれは顔を合わせなければならない相手。
ユジンにとってジュンはそういう存在だった。
「は、初めまして、あの…、私は米国の本社から先日参りました、リ・ジュンです。
こちらこそどうぞ宜しくお願い致します」
ジュンはジュンで、動揺しながらも、やはりこの時が初対面かのように振る舞う。
それは今が、米国のミニョンの部屋でユジンを見かけた事をとても言い出せる状況でもなく、そして自分の口からそんな事を言いたくもなかったからだ。
「こちらのリ室長は米国本社で1年という短い期間でありながら、イ理事の片腕としてなくてはならない存在になりましてね、今回のイ理事の移動にも無理言って、同行して頂いたんですよ。
…そういえば、ユジンさん、イ理事にはもうお会いになりました?」
キム次長はそんな2人の胸の内も知らず、お互いの挨拶が済むと、ユジンにジュンの事を紹介しながら、当たり前のようにミニョンの名前を口にした。
たとえば、この場所にジョンアが居たならば、「あなたのこういう所がデリカシーに欠けるのよ…」と嘆いたかもしれない。
それくらいこの人の良いキム次長は、ある意味おおらかだった。
キム次長自身は、2人がすでに再会を果たした事、そしてユジンが別れを告げられた事実を知らないが、それでも3年前の2人の過去は知っている。
にも関わらず、簡単に実にあっけらかんと事を進めようとしたのだ。
それはたとえ2人がこれから仕事を共有しあう者同士だとしても、レセプションの会場で2言、3言話して済む内容じゃないことぐらい分かりそうな事だった。
まして、あの頃と状況が違う、ミニョンは目が見えないのだ。
これには、尋ねられたユジンもさすがに困惑したようだった。
ジュンの手前もあるし、おいそれとは返答出来ない。
「いえ…、まだですが…」
ユジンはそう言うと、口ごもった。
が、すぐに「でも、イ理事は今日はお忙しいでしょうから、遠くから顔だけ見て帰る事にします」と続けると2人に向かって頭を下げた。
キム次長は、ユジンのその様子に何となくぎこちなさを感じたものの、引き留めるまでの事はしなかった。
いずれは会うのだし、それにユジンなら今更、紹介する必要なんてないのだから。
こうして、3人は仕事上の仲間としての挨拶を済ませるとその場で別れ、ユジンは出口に、キム次長とジュンはグラスを持ってミニョンの元に向かった。
チョン・ユジン…
ジュンはその道すがら、今知ったその名前を頭の中で反芻した。
分かったのはその名前と勤め先、キム次長とは昔からの知り合いで友人のような間柄…
それだけだったが、今まで何も分からずにモヤモヤとしていた事を考えるとそれは大きな収穫と言える。
でも、何でミニョンに会おうとしなかったのか?
その為に今日、来たのではないのだろうか?
あんな目でずっと見つめていたというのに…
ジュンにはそれが解(せなかった。
ジュンは横目でキム次長の顔を眺めた。
きっとこの人なら、全てを知っている。
しかし、それは分かっていても、ミニョンのプライベートを根ほり葉ほり聞くなんて、どう考えても無理だった。
それは自分がミニョンに対して持っている感情をさらけ出すのと同じなのだ。
なら…
ジュンは1つの気持ちを固めた。
こうして、ユジンが再び目の前に現れた以上、自分が始めなくてもきっと事は動き出してしまう。
それならば、動き出す場所は自分の手の中の方が良いのに決まっている。
一番嫌なのは、秘密裏(に自分が何も知らぬまま、物事が進む事。
分が悪い事が分かっているジュンは、どうしてもそれだけは避けたかった。
「イ理事、飲み物を持ってきました」
ジュンはミニョンの手を取ると、その手にグラスを持たせた。
「どうしたの?やけに遅かったね?」
「すいません。バーカウンターに行く途中、キム次長とキム次長の友人と言う方にお会いしまして、少しお話していたんです」
「キム次長の友人?」
「はい。ポラリスのチョン・ユジンさんと言って…」
ガシャーン!!
ミニョンの持っていたグラスは、その瞬間ミニョンの手を離れ、床に散った。
その音で振り向いたキム次長は、床の有様を見て慌ててボーイを呼ぶ。
「理事、けがはないですか?」
「…大丈夫です。それより、すいませんでした」
「なに、手が滑るって事は誰にでもありますよ。気にしないで下さい」
キム次長はミニョンの背中をポンと叩くと、代わりの飲み物を取りにその場を後にした。
ジュンはその間、ボーイと一緒になってグラスの破片を集める振りをしながら、床に跪(いた格好からずっとミニョンを見上げている。
そして、見られていることを知らないミニョンは、ジュンのその視線から自分を繕う術もなく、ただ受けた動揺をそのまま顔に出していた。