秘密の扉 【2】




ルルル…
ミニョンの部屋に電話の呼び出し音が鳴る。
その音を、ミニョンはベットの縁に腰掛けながら聞いていた。

いつ眠ったのか、いつ起きたのかを、いちいち音声時計で確認しなければ分からない日常の中いるのに、それを昨日からしないで過ごしたツケは、今になってミニョンの全てを曖昧にしていた。

皆が夜と呼ぶ時間に、自分が眠ったのか?朝と呼ばれる時間に、自分が起きたのか?
今は夜着なのか?それともワイシャツのままなのか?
それさえも自分自身、それこそいちいち考えて見なければ分からない。

だからこそ、ミニョンはその音に触れる事を躊躇(ためら)った。
何も分からない今の現状のまま電話に出たところで、自分にまともな返事が出来るとはとても思えない。
しかし、そんな事にお構いなく、電話のベルは鳴り続ける。
そしてもしも、このまま出なかったら、今度はボーイが部屋に飛んでくるのに違いないのだ。

「もしもし…」
ミニョンは仕方なく受話器を取った。

「おはようございます、イ・ミニョン様。お電話が入っておりますが…」
丁寧(ていねい)かつ柔らかな声は、長い間電話に出なかった事を(とが)めることもなく、用件をさらりと伝えると、返事を待つ空気だけをこちらに送る。

「誰からですか?」
ミニョンはその空気に押されるように、当然聞くべき事を聞いた。
ここまでは、幸い深く考えて答える必要もない。

「キム・サンヒョク様からです」
「…」
が、同じような口調から発せられたその名前に、ミニョンは言葉を詰まらせた。
サンヒョク…
その名前を決して忘れた訳ではなかったが、今のミニョンにとってその名前は自分の想定外のものだった。

「あの…、すいませんが、1時間後にもう一度かけ直してくれるように言ってもらえませんか…」
ミニョンはやっとそれだけ伝えると、自分に与えられた1時間に何をすべきか、重い頭を(めぐ)らせた。
そして、フロントマネジャーの「はい、ではその様にお伝えします」の声を聞くとおもむろに、なるべく同じように丁寧かつ柔らかな声で尋ねた。
「今は何時ですか?」


それからのミニョンの行動は、まるでネジが巻かれた人形の様に正確だった。
シャワーを浴びて、薄いグリーンのサマーセーターとベージュのパンツに着替えると、コーヒーをルームサービスで頼み、それを飲みながら電話を待つ。
そうして、時間を聞いてから自分の中で刻み続けた時がそろそろだと知らせる頃、電話が再び鳴った。

ミニョンは今度は落ち着いていた。
それは、イ・ミニョンがどんな人物か復習(さら)い直したような(たたず)まいだった。

「もしもし…サンヒョクか?」
ミニョンは先程と同じようなフロントとのやり取りの後、電話が(つな)ぎ直されるのを待って喋り始めた。

「うん」
「さっきはごめん、ちょっと用事があって…」
「いや、いいんだ。それより韓国に戻って来てくれて、嬉しいよ。
今まで、帰国したばかりで忙しんじゃないかと思って、週末が来るのをずっと待っていたんだけど、いや、長かった。
本当はすぐにでも会いたかったから…」
「そうだったのか、それは申し訳なかったな」
「で、今日はどう?会えるのかな?」
「ああ、大丈夫だ」

それからホテルのレストランで昼食を一緒に食べる約束をして、ミニョンは電話を切った。
サンヒョクに会うのは3年ぶり。
最後に会ったのは、そう…、米国に発つ直前、ユジンの事を託した時だった。
僕が腹違いの兄だと知って、どれだけ傷ついたか分からない弟からの電話。
その弟が韓国に戻った事を聞き、会いたいと言ってくれる。
それは素直に喜びたかった。
そして、だからこそ、その内容が何であれ、それを聞いてやる事は兄である自分の努め…ミニョンはそう思った。

もしかしたら、ユジンとの事を聞かれるかもしれない。
いや、当然聞かれるはずだ…
そうしたら…
答えはもう決まっている。何も迷うことはない。

ミニョンはそれだけを確認すると、もう一度、受話器を持った。
それは、いつもならジュンと一緒に食べている昼食を、キャンセルする為の電話だった。


12時を少し回った頃、壁に手を伝わせながら、ミニョンはレストランに現れた。
その姿を見つけて、1人の男性が席を立つ。
ジュンはそれをレストランの一番奥まった席に座って、観察するようにじっと見ていた。
新しい人物の登場。
それは自分にとって不可欠な、あらゆる意味でのチャンスになりかねない。

「今日はお1人ですか?」
すっかり顔なじみになったウェイターは、料理を運びながらジュンに尋ねる。
「ええ、そうなの。理事は、ほら、あそこでお客様と会食よ」
軽いBGMが流れる中、促された方向を見たウェイターは、ミニョンの様子を見て納得の表情で頷いた。



「ジュンサン…」
ミニョンはその声に一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になると声のする方に手を差し出した。
「サンヒョク…久しぶり…」
そして、自分の手に温もりを感じると、もう片方の手も壁から離し、サンヒョクの手をさらに包んだ。

「元気そうで安心したよ」
サンヒョクはミニョンの手を引いて席に着くと、少し高揚したような声で話し始めた。
その顔には言葉通りの安堵の色が見て取れる。

「サンヒョク、君はどうなんだ?僕には声の感じから元気そうだとしか分からないけど…」
「ああ、僕なら心配いらない。元気だよ」
「そうか…良かった」
「父さんも元気だ。ただ母さんの手前、今日ここには来られなかったけれど…」
「そうか…」
そこまで話すとウェイターがメニューを持ってやってきた。
それから食事が済むまでは、それぞれが会えなかった3年間を報告しあう内容の話が続いた。

サンヒョクはミニョンが2回の手術を受け、今尚、定期的に治療を続けている事を知り、ミニョンはサンヒョクがチーフプロデューサーになって、番組をいくつも任されている事を知った。

「ジュンサン、いつか近い将来、父さんにも会ってくれないか?」
食後のコーヒーが運ばれてくると、サンヒョクはその湯気の立った琥珀(こはく)の液をスプーンでかき混ぜながら、伺うような調子でミニョンに聞いた。

「母さんは僕が連れ出すから、その間に会えば大丈夫だと思うんだ…」
「でも、サンヒョクのお母さんは、僕の存在を認めたくないんだろう?黙って会って、もしもそれが知れたら大変だ」
「だとしても、親子なんだからやはり一度きちんと話さないと…、ジュンサンはそう思わないのか?」
「僕はもうこれ以上、キム教授の家族という(まと)まりを崩したくない。それに…」
ミニョンは次の言葉を言おうとして、初めてサンヒョクの視線から逃れるように顔を背けた。

「それに…、僕はもうカン・ジュンサンを辞めたんだ」
顔を背けても、突き刺さるようなサンヒョクの視線が注がれているのが分かる。
「カン・ジュンサンを辞めたって?」
「そうだ。僕はイ・ミニョンとして生きている。だからキム教授に会っても、それは意味がない事だと思う」
「意味がない…、意味がないだって…」
サンヒョクはミニョンのその返事を聞いて、以前ユジンから聞いた話の意味を理解した。

「そうかジュンサン、君は、そんな調子でユジンに同じ事を言ったのか?一緒にいても意味がないって言ったのか?」
「そうだ…」
その返事は、聞き逃せば消えてしまいそうなほど短く、が、重い一言となってサンヒョクの耳の奥にいつまでも残っていた。