秘密の扉 【3】




本当はもっと話さなければならなかった。
カッとする前に、何か他に出来なかったのか…
サンヒョクは週末で賑わう歩道の喧騒(けんそう)の中、1人行き場を無くしたように歩いていた。

程良い太陽の光と街路樹の緑、そしてそこに集う人々。
そのどこに目を転じてもキラキラと輝いている。
しかし、それはどう見ても今の自分とは似つかわしくない。

それに、あんな捨て台詞も言うべきではなかった。
その後悔の気持ちが、サンヒョクの心を更に重くしていた。
この3年の間、ジュンサンに言いたかった事は別の事だったのに…
人を傷つけると、それはそのまま自分の傷に変わる。

「あの…」
その伏せ目がちに歩いていたサンヒョクを、誰かが後ろから呼び止めた。
サンヒョクは最初、それが自分に向けられた言葉だとは思わなかった。
だから、気にはしたものの、それが風の音だったかのようにやり過ごすと、直ぐに同じ歩調で歩き出した。

「あの…」
だが、その声はもう少し大きくなると、再び呼び止める意志を持ってサンヒョクを呼ぶ。
立ち止まって、無言のまま振り返るサンヒョク。
その目に映ったのは、黒髪にハッキリとした目鼻立ちを持つ韓国人らしからぬ風貌の女性だった。
その風貌もあって、サンヒョクは最初、彼女がどこかの店のセールスかアンケートの勧誘だと勘違いをした。

「悪いけど、話を聞く気分じゃないんだ…」
サンヒョクは一方的にそれだけ言うと、目を合わせることもなくまた歩き出した。

振られた女性は、離れていくその後ろ姿をしばらく見つめていたが、早足でその背中を抜き去ると今度はその行く手を(はば)んだ。
『しつこいよ…』
うんざりとした様子のサンヒョクは、今にもその言葉を口に出しそうだ。

「イ理事のお知り合いですよね…」
そんな気持ちを察知してか、女性は今度は言うべき最初の言葉を選んだようだ。
サンヒョクの目の色が変わる。
「私はリ・ジュンと言います。少しお時間を頂けないでしょうか?」
ジュンはこうしてキム・サンヒョクという、ミニョンを知りうる最良の人物と知り合った。


「そうですか、マルシアンにお勤めですか…」
「はい、室長をしております。この度のイ理事の移動に伴って、ニューヨークから転勤になったのです。…あの、失礼ですが貴方様のお名前を教えて頂いてもよろしいでしょうか?」
「僕はキム・サンヒョクと言います。仕事はラジオ放送局でディレクターをしています」
場所を喫茶店に移した2人は向かい合うと、注文したハーブティーが来るまでに、簡単な自己紹介をした。
その遠慮がちの様子は、まるでお見合いでもしているような雰囲気だ。
だが、それも口に含んだお茶の香りと温かさが少しずつ溶かしてくれる。
そうして2人は落ち着くと、それぞれが思惑を持って話し出した。

「実は先程、ホテルのレストランでイ理事と食事をなさっているサンヒョクさんをお見かけしたんです」
「ああ、そうなんですか、それで…」
「はい。失礼とは思いましたが、後を追いかけてきました」
「それは、またどうしてですか?」
「イ理事の事をお聞きしたくて…、イ理事は韓国に来てから少し変なんです」
「変?」
「はい。時々ぼうっとして話を聞いていなかったり…。
私共は韓国に来てまだ1週間足らずですので、慣れなくて気苦労も多いのですが、イ理事は3年半ほど前に一度韓国に来ているはずです、ですから、不慣れの一言で片づけてしまうのも心配で…。
目が不自由だからという理由も考えましたが、米国での仕事ぶりを考えると余りピンとこなくて…、何しろ、最初に会った時から、そんなハンデを感じさせる方ではなかったのです。
ただ、目を痛める原因となった事故に遭った場所が韓国だったと聞きました。イ理事はその事を思い出されて、元気がないのでしょうか?」

そう聞かれて、サンヒョクは返事に困った。
思い当たる節はある。しかし、それは簡単に言えることじゃない。

「…そうですね、そうかもしれません」
サンヒョクはジュンの目から視線を逸らしながら、気の無いような返事をした。
が、ジュンがその返事に満足などするはずもない。
そして、あくまでも心配そうな顔をしながら、次のカードを切った。

「ポラリスのチョン・ユジンさん…て、ご存じですか?」
目の前のサンヒョクの顔が小さく歪むのを見て、ジュンはこの質問が当を得ていたことを知った。
さて、彼はどう返答するのか…?
ジュンにとってもこれは大きな駆け引きの始まりだった。

サンヒョクはサンヒョクで、ユジンの名前を聞いて混乱した。
彼女はどこまで知っているのだろう?

「はい、知ってますよ。高校の時の同級生ですから…」
取り敢えず、サンヒョクはそれだけ口にした。
「じゃあ、サンヒョクさんはユジンさんのお友達として、イ理事とお知り合いになったのですね?」
「いや、彼も同じ高校の同級生だったから…」
「えっ!?」

ジュンは最初、サンヒョクの言っている事が理解できなかった。
イ理事の事は米国にいる時に調べ上げている。
だが、その調べた書類の中に、韓国の高校に通っていた過去などなかったのだ。
米国で生まれ、学校もずっと米国で、海外経験はフランスに留学した時と、その後半年ほど仕事で滞在した韓国だけだったと聞いている。
それとも、この2人が米国に留学していたのだろうか?
ジュンは一旦驚きの表情を仕舞い込むと、サンヒョクに合わせるように微笑んだ。

「そうでしたか、それではよくご存じですよね。確かイ理事が通っていた高校は…、えっと…」
「春川第一高校です」
「ああ、そうでしたね。春川第一高校」
ジュンはその名前を胸に刻んだ。

「じゃあ、イ理事が戻ってらして、同級生だった皆さんは喜んでいるでしょう。だからユジンさんも、直ぐにお会いになりに来たんですね」
「ユジンは何時(いつ)、イ理事に会ったのですか?」
「昨日です。レセプションの会場にユジンさんもいらしてましたから。あ、でも、お話はしていなかったと思います」
「話してない?」
「はい。私がお目に掛かったときには、お忙しそうだから声は掛けないでお帰りになるとそうおっしゃっていました」

サンヒョクはジュンの話に頷くと、思わず小さなため息を()いた。
声も掛けずに帰る。
そのユジンの切ない気持ちがサンヒョクには痛いほど分かった。

「それも事故のせいかしら…」
ジュンは話の幅をこれ以上広げられない気持ちからか、サンヒョクの様子を見て、思わずそう漏らした。
何せ、韓国でのイ理事に関する事で知っているのは、ユジンの事と事故に遭った事ぐらいなのだ。
だが、これにサンヒョクが前と違って思わぬ反応をした。

「ああ、多分そうだろう。ユジンは自分を助ける為に事故に遭ったイ理事が、失明してしまった事実を重く受け止めているだろうし…」
「…」
サンヒョクにとってこの事は、事実だが真実の一部に過ぎなかった。
だから、さほど深く考えもせず、ジュンを納得させる理由として使ったのだ。
しかし、その事実は何も知らなかったジュンの気持ちを深く(えぐ)るのに十分だった。

イ・ミニョンを失明に追い遣ったのはチョン・ユジン。
それは新たな火種となった。