秘密の扉 【4】
「残念だよ、イ・ミニョン。どうやら君は目が見えなくなった事で、心の目まで失ったようだ…
だが、そうやって何も見ようとしない君はある意味幸せだ。
ユジンの悲哀を君は知らない。
あの、時折見せる哀しそうな瞳を君は見なくてもいいのだからな」
サンヒョクが席を立つ前に言い残した言葉が、ミニョンの胸の中に蜷局を巻いていた。
その赤い舌の先が傷を舐めるたびに痛みが走る。
全ては分かっていた上で選んだ言葉だったのだから、何を言われようと後悔なんてない筈だった。
そう、これは後悔の痛みではない。
では…
ミニョンは1人残されたテーブルで、唇を噛み締めていた。
両肘を机の上につき、顔の前で組み合わされた手に頭を乗せると、肩が微かに震え出す。
ユジンの顔が…、生涯忘れぬ想いでいたユジンの顔が思い出せない。
僕は、その資格さえ失ったようだ…
ミニョンの心の中でジュンサンが墜ちていく。
それはパックリと口を開けた傷の中、誰にも手当をされないまま涙を流していた。
その一方で、ミニョンが葬ろうとしたジュンサンを、ジュンは何も知らずにただ探究心だけで暴(こうとしていた。
春川第一高校という確かな手がかりを持って、それは時を同じくして動き出す。
バスに揺られながら、ジュンはこれから先、自分が踏む込む世界を思い描いていた。
それは、今まで知らなかったミニョンの秘密を覗き見る感覚をジュンに与える。
履歴にもない過去。
それは何を意味するのか?
目的のバス停で降りると、辺りはすでに夕暮れの気配が漂っていた。
ジュンはそんな中、通り合わせた人に道を尋ねながら、やっと坂道の上にある高校に辿り着いた。
幸い休日でも門は開き、奥の建物からは人の出入りも見える。
それを確認すると、ジュンは意気揚々と足を踏み出した。
「職員室はこちらになります」
「どうもありがとう」
校庭ですれ違った女性徒は、ジュンを案内し終わると、ペコリと頭を下げ束ねた髪を揺らしながら今来た廊下を帰っていった。
それを見送ると、ジュンはバスの中でさんざんシミュレーションした台詞を用意して職員室のドアを叩いた。
「私の亡くなった兄の友人を捜しているのですが、こちらで調べていただけないでしょうか?」
帰り支度をしていた職員は、最初、ジュンの突然の訪問を訝(しがったが、米国からわざわざ探しに来たという一言に、重い腰を上げざるを得なかった。
「どうしてもその人に、兄の最後の言葉を伝えたいのです」
瞳を潤ませるジュンをにべにも出来ず、職員は言われた卒業年度の言われた名前を、名簿の上で目を皿のようにして探している。
が、幾ら探しても、イ・ミニョンという名前は見つからない。
ジュンも名前が連なる名簿を借りて、上から指で押さえながら調べてみたが、キム・サンヒョク、チョン・ユジンの名前は見つけられても、結局最後までミニョンの名前を見ることはなかった。
サンヒョクの言葉は嘘だったのか…
いや、そんな素振りはなかったはず…
ジュンは焦りを隠さないまま、落胆の色を顔に滲ませた。
「他に何か手がかりはないのですか?」
職員はそんなジュンの様子を心配したのか、押し黙るジュンに声を掛けた。
「あとは、その人の両親の名前ぐらいしか分かりません。父親はイ・レオン、母親はカン・ミヒ。ミヒさんは有名なピアニストです」
「カン・ミヒ!ああ、知ってますよ。私も音楽の教師ですから。でも、それでも心当たりはありませんね…、何かの間違いじゃないですか?」
「いや、確かにここの高校だと聞きました。お願いです、もう一度調べてもらえませんか?」
「そうですね…」
ジュンの顔を見た職員は、次に腕時計に目をやり、最後に部屋の隅のパソコンを目で捉えた。
「昔の資料は去年、業者に委託してすべてデータ化した後に消却しました。これもプライバシーの保護という時代に沿った処置です。
本来なら上の許可がないと見てはいけないことになっていますが、事情も事情だし、時間も遅いし、…じゃあ、一回だけ検索してみますから、それで納得してもらえますか?」
「はい、お願いします」
ジュンは藁(にもすがりたい気持ちだった。
パソコンが立ち上がると職員はパスワードを入力し、全てのデータに対して3つの名前をキーワードにして検索をかけた。
何万件もあるデータも、一瞬にして結果が分かるのがパソコンのもっとも優れている利点だ。
「おっ、1件だけ引っかかりましたよ」
画面の点滅する光を見つめる職員の声は、心なしか嬉しそうに聞こえる。
その声に引き寄せられるように、ジュンも画面に顔を寄せた。
「カン・ミヒの名前でヒットしたようです。ほら、ここが反転してるでしょう」
確かに示された場所には、カン・ミヒの名前があった。
「えっと、この生徒は…確かに年齢的にはお探しした年に卒業したはずですね、うん?交通事故で死亡、あぁ、それで、卒業名簿になかったのか、いや、でも肝心の名前が違うな…カン・ジュンサン…?お探しの人はそんな名前じゃないですよね」
「えっ、ええ…」
「じゃあ、偶然かな。やはり、こちらには在籍していなかったようですね」
職員は見つからなかった事でスッキリとした顔をジュンに向けたが、ジュンにとってはそれは予想外の結果としか言えず、戸惑いだけがその顔に浮かんだ。
「じゃあ、私はこれで帰りますので…」
職員はジュンに最後通告のようにそう言うと、パソコンの画面を操作し始めた。
その横でジュンは、呆然と立ちつくす。
ここに来る道すがら、バスの中で考えていた展開とは程遠い結果がそこにあった。
秘密の花園は簡単には見つからない。
だが、ジュンが見つけられなかったこの場所に、彼は確かに存在した。
誰が知らなくても、夕日に照らされ始めた教室に、煙の立ち上る焼却場に、限られた仲間達だけが見られる幻影となって生きていた。