真実の口 【1】
「…これって…何?…いったいどうなってるの!?」
チェリンは、朝食としてすっかり定着したメニューであるパンとコーヒーを目の前にして、驚きの声と共に椅子から立ち上がった。
その目は朝のニュースでも見ようと思ってつけたTVの画面から離れない。
それはある会社が建設予定をしているマンションの紹介をしている番組だった。
「こちらには、自由設計が出来る障害者向けのお部屋もご用意出来ます」
と、まるでそれが売込み言葉のように社員が笑顔でセールストークしている中、チェリンはその後ろに表示された概要説明の中に、マルシアン代表理事イ・ミニョンの名前を見つけたのだ。
「弊社のマンション建設を施工するマルシアンの代表理事であるイ・ミニョン氏は、その設計力で若い時から数々の賞を受賞し、視覚障害者となった現在も、その経験を設計に生かし第一線で活躍しております。ですから細かい所までサポート出来るわけです」
立ち上がったままのチェリンは、社員が説明するその言葉を聞くと、糸が切れた操り人形のようにストンと椅子に腰を落とした。
間違いない、ジュンサンだ。
米国に渡ったジュンサンの目が見えなくなったとサンヒョクから聞いたのは、もう3年も前になる。
それ以来、サンヒョクやヨングクやジンスクと会っても、誰もその後のジュンサンについて話そうとしなくなった。
「ジュンサンはそうなる可能性を知っていたから、ユジンと別れて米国に行ったんだ」
サンヒョクが話してくれた理由は、余りに辛すぎた。
そして、ユジンが全てを知りつつフランスに留学した事を更に聞かされて、どうにも言葉を失ったのだ。
それが…
ユジンが留学から帰って来たのが3月の終わり、そして、6月なったばかりの今こうして2人が韓国にいる。
このことを、サンヒョクは知っているのか?ヨングクやジンスクは?当人同士はどうなのだろう?
チェリンは再び立ち上がる。
その手には真っ赤な携帯電話が握られていた。
「サンヒョク〜!!」
奥のテーブルでテンション高く声を上げたチェリンを見て、サンヒョクは苦笑いを浮かべた。
今や業界きってのやり手の実業家として名前が知られてきたチェリンも、こうした様子を見るとまるで学生のように屈託がない。
「チェリン、恥ずかしいだろう。大声で呼ぶなよ…」
「だって、すっごいニュースがあるの!それを早く言いたくてウズウズしてるのよ」
「だったら電話で言えばいいだろう」
「そうしたら、驚く顔が見られないじゃない」
嬉しそうにはしゃぐチェリンを、サンヒョクは半ばあきれ顔で見ている。
これは長い話になりそうだ。
サンヒョクはウエートレスを呼ぶと、今日7杯目になるコーヒーを注文した。
最近飲み過ぎで、胃の粘膜が弱ってきていると気になってはいても、こればかりは止められない。
「で、何?驚く程のニュースって、結婚でもするのか?」
飲み物の注文をし終わると、サンヒョクは話を聞く体制を整えた。
「そんなんじゃないわ、もっと驚く事よ。あのねぇ…ジュンサンが韓国に帰ってきてるのよ、知ってた?」
「…」
押し黙ったまま、見開いた目で自分の顔を見つめるサンヒョクに、チェリンは満足げな表情を浮かべ、片方の口端を上げた。
何も知らないと思っていたチェリンの口から、ジュンサンの名前が出てくるとは…。
チェリンの呼び出しに何の疑問も持たず、お気楽気分で来てしまった事を、サンヒョクは今になって後悔した。
と、同時にこの場をどう対処したらいいか直ぐには考えが浮ばず、サンヒョクは自分の指先から血の気が引いていくのが分かった。
「ね、驚いたでしょう!そうよね、驚くわよね。そうか、サンヒョクが知らないなら、当然ユジンも知らない筈だから、これはユジンも呼び出して…」
「ダメだ!!」
咄嗟(にサンヒョクは言葉に出していた。
その余りの声の大きさに、店中の客が振り返る。
チェリンは最初、サンヒョクの剣幕に呆気(を取られていたが、周りが平静を取り戻すと早口で捲(し立てた。
「何よ、大きな声出して!サンヒョク何か勘違いしていない?私はもうずっと前にジュンサンを諦めたの。確かに彼は私の初恋の人よ。でも、どうあっても惹かれ合う2人の姿見せつけられて、しかもあんな結末を迎えた2人を見てきたのよ。今更手なんて挙げられないわ。それはあなたも同じでしょう。私はね、放送部の仲間として、2人の初恋を成就させてあげたいと思っただけよ」
最後の一行は、コーヒーを運んで来たウエートレスを気にして声が小さくなったが、サンヒョクにはちゃんと伝わったようだった。
その証拠にウエートレスが立ち去ると「そんな事、分かっている…」と力無くだがサンヒョクは答えてくれた。
「じゃあ、何でダメなのよ!」チェリンは退(かない。
たとえ、この場でサンヒョクが泣いても、チェリンは理由が分かるまで突っ込んで聞くだろう。
そして、それが分かっているサンヒョクだからこそ、この場をどう切り抜けたらいいのか悩んでいた。
「チェリン…」
「何?」
「実は僕もユジンも知っているんだ、ジュンサンが帰って来た事…」
「えっ、そうだったの!…それなら何で知らせてくれなかったのよ!」
「それは…」
言葉に詰まるサンヒョクを見て、チェリンは眉を曇らせた。
「もしかしたら、ジュンサンに恋人でもいたの?それともユジンにその気がないの?」
「いや、少なくてもユジンは今でもジュンサンを愛している。ジュンサンも多分…そうだと思う…」
「多分って何?サンヒョク、知っているなら教えてよ!」
自分が除(け者になっていたショックで、チェリンの頭には十分過ぎる血が上っていた。
もし、これで本当の事をチェリンが知ったら…
この勢いなら、このままジュンサンの居所をキム次長にでも尋ねて押し掛けるかもしれない。
出来ればそれは避けたかった。
ジュンサンのあの意固地な態度は簡単には覆(されない、そればかりか、あの様子では周りが言えば言うほど頑(なになりそうなのだ。
その時、サンヒョクの頭に閃(きが走った。
これは口実になるかもしれない。
「チェリンよく聞いてくれ。ジュンサンは1人で韓国に戻ったわけじゃないんだ。とても優秀な片腕と一緒だった。
どうやら、ジュンサンの仕事を米国にいたときから形作っていたのがその人物だったらしい。
だから、今のジュンサンにはその人物がかけがえのない存在になっているのだが…、問題はその人が女性でしかも美人だということなんだ」
「美人?そんなの関係ないじゃない」
「まあ、そうだが、チェリンみたいに綺麗に越したことはないだろう?」
褒められたチェリンは頬の筋肉を少しだけ緩めたが、相変わらず視線だけは射るようにサンヒョクを見ている。
「その2人の関係がハッキリしないと、ユジンもジュンサンと会えないんだ。
だいぶ、ユジンも気にしてて…、3年の歳月は長いからね。
それを調べ始めた矢先だったから、だから誰にも連絡しなかっただけさ。
隠すつもりなんてなかったけど、これ以上ユジンを傷つけない為には、少しの間、時間が必要だったんだ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
「じゃあ、私も参加させて。どうせヨングクもジンスクも直に連絡してくるわ」
「ヨングクとジンスクに話したのか?」
「ううん、まだよ。でもきっとTVや新聞で見ると思うわ、これから韓国中に宣伝するって言ってたし」
「宣伝って何だ?」
「今朝ね、TVでマルシアンが施工するマンションの内容をニュースで取り上げていたのよ。イ・ミニョンの名前もバッチリ出してね」
得意げにチェリンが話すのを聞きながら、サンヒョクは内心頭を抱えたかった。
このままだと、蒔(いた種は自分が知らない間にどんどん大きくなりそうだ。
さっそくチェリンは探偵気取りで、あれこれ策を考えている。
「直接、彼女に聞けばいいじゃない。サンヒョクって度胸ないのね」そんな事まで言って。
サンヒョクは、そんなチェリンの話を聞き流す為に、すっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。
味も香りも感じない、ただほろ苦さだけが喉を通る。
すると、弱っていた胃がチクチクと痛んだ。