真実の口 【2】
柔らかな風が吹いている。
それに、この時間にしては日差しもまだそれ程強くないので、彼はきっと今日もこの場所に来るだろう。
最初に彼が川面に面したベンチに座って、顔を上げ、風を受ける姿を偶然見掛けた時、私はしばらく立ちつくしたまま動けなかった。
変わらない横顔と風に流れる髪は、見ているだけの私の息を止める。
記憶を無くしたジュンサンを大学路(テハンノ)で見かけた、そう、丁度あの時みたいに。
ただ、あの時と違うのは、今、目の前にいる彼はジュンサンの記憶ではなく、ジュンサンの人生そのものを無くしている事。
それも自分の意思と合意の上で…
それを思うと、彼の姿も滲んできた涙で霞み、段々とその距離も遠くなるようだった。
それでも、出会える場所と時間が分かってしまうと、私は逢いたくて、まだ建設が始まったばかりで土台と鉄骨の骨組みだけのマンションに、作製意欲が湧くから毎日でも現場を見たいと嘘をついて来ている。
インテリアデザイナーの言葉としては、余りにも幼稚な発言で、言ってしまってから汗をかいたが、ジョンアさんは何も言わずに許してくれた。
「必要なんでしょ、ならいいわ」
きっとジョンアさんは、そうすることで保っている私の心の内を見透かしていたのだろう。
実は明日、マルシアンで最初の打ち合わせがある。
モデルルームの内装は最初、別の会社が受け持つ筈だったが、急遽変更になったのでポラリスにお願いしたいと連絡があったのが1週間前。
仕事が増える分には問題なしと、ジョンアさんは私に目配せした後にOKの返事をした。
いつかはこの時が来る。なら、早い方がいいのかもしれない。
嵐の海に出る準備は、彼を見つめ続ける中で既に出来ていたのだから…。
休憩時間になったのか、作業員が1人、2人と外に出てくる。
私は最後の逢瀬を待つような気持ちで、いつもの場所に初恋の人が来るのをじっと待っていた。
――――――
「中でお待ち下さい」
ミニョンの仕事場に通されたユジンは、すっかりモダンな雰囲気に様変わりした部屋を少々戸惑いながら見渡した。
壁紙は薄いグレーで装飾品はほとんど無く、中央に飾られた絵もエッチングされた線描画だけのシンプルさ。
そんな中、床に置かれたアンスリウムの花弁の赤だけが目立ち、アクセントになっている。
アジアでも、ヨーロッパでもない空間。
それはユジンにとって、ミニョンをますます別人に感じさせるような気がした。
「ここの内装はどうですか?気に入って頂けました?」
そんな事を思いながら、部屋の中をゆっくりと歩き回っていたユジンは、背後からの声に不意を衝(かれた。
振り向くと、ドアの前にはジュンが立っていた。
「はい。素敵ですね」
ユジンは平静を装って答えたが、ジュンが現れた事に正直戸惑いを隠せない。
が、当のジュンはユジンの答えを聞いて笑顔でテーブルに歩み寄った。
「ユジンさんもどうぞ、お座りになって下さい」
ジュンは立ったままのユジンに椅子を勧めると、すぐさまテーブルの上に書類を広げ始めた。
その無駄のない動きだけで、ジュンが米国でいかに有能なキャリアウーマンだったか分かる。
ユジンはその姿に、今、この場所に居る自分とジュンの意識の違いを感じ、気持ちを新たに引き締めた。
「早速ですが、本題に入ります」
ジュンは準備が整うと、ユジンの顔を正面に見据えたまま喋り出す。
そこには余裕が見てとれた。
「アフロスのマンションのCMを見て頂くと分かると思いますが、あちらの販売戦略のコンセプトは、『開かれた優しさ』です。
高齢者や障害者にも手を広げ、それらを受け入れながら共に生きていく…。
福祉が見直されている今、それならば世間に対しても好印象を与えらますので、こちらもその路線で推し進める事に賛成しました。
それで、モデルルームも障害者向けに設計したものを最初に提供することになりまして、今日はユジンさんに来て頂いたわけです」
概要を話すと、ジュンは目の前の書類を指さしながら、ユジンに設計図の詳細を説明し始めた。
「優しさを前面に押し出すとなると、色合いも明るくて柔らかな感じでよろしいですか?」
「そうですね。ただ、あまり軽い感じでも困ります。使う色はその点を注意してください」
「分かりました」
「それと、今回、天然木をふんだんに使う予定です。内装でその木の持つ風合いを殺さない様に気をつけてください」
「はい」
ユジンは手帳に、ジュンの言う注意点を書き込みながら、頭の中ではイメージを膨らませる作業をしていた。
どんな人がどんな風にこの部屋を使うのか?
それも内装を決める上で、重要なポイントだからだ。
「この部屋を使う人の年齢は、どの位に設定すればいいですか?」
ユジンは最後にジュンに尋ねた。
「年齢はユジンさん、あなたと同じです」
ジュンはそう言い切った後、フッと微笑むと、更に言葉を続けた。
「性別は男性で独身。性格は明るくて社交的。
仕事は好きで頭も切れるが、自分に対しても他人に対しても厳しいので、部下にはその点を恐れられている。
目は光の明暗が判別出来る程度しか見えないが、その分感覚が鋭いので、相手は何に於(いても手抜きが出来ない。
…これ位情報があればいいでしょうか?」
話し終わるとジュンは顔を上げた。
ユジンがどんな反応をしてるか見たかったからだ。
だが、ユジンは案外平然としていた。
余りにあからさまな話だった。
そんなこと、あなたに言われなくたって分かってる。
ユジンはジュンの話を聞いて、憤りを感じていた。
なぜ最初に、ミニョンが使う事を想定してモデルルームを設計したと言わなかったのだろう。
しかも最後にこんな形で明らかにして…
いったい何が言いたいのか。
「気がつきましたよね?」
が、憤りを感じたのはジュンも一緒だった。
その顔つきは、仕事の時と一変していた。
「それとも、怪我を負わせた方は、忘れてしまうものですか?」
「…」
「ユジンさんが原因なんでしょ、イ理事が失明した事故は…」
そうなのか…
今日、ミニョンを同席させなかったのも、全てはこの一言を言いたかった為なんだ。
ユジンは紅潮したジュンの顔を見て、やっとその意図を理解した。