真実の口 【4】
「頑張ってくださいね。それじゃあ、僕はお先に失礼します」
キム次長はミニョンを席に座らせると、ユジンの耳元で囁いた。
「あ、あの…」
ユジンはそそくさと席を立ったキム次長を何とか呼び止めようとしたが、上擦った喉からは思うような大きな声が出ない。
そうこうしているうちに、キム次長は人に紛れて姿が見えなくなってしまった。
ユジンは仕方なく1人になった心細さを押しとどめながら、おずおずと後ろを振り返った。
そこには逢いたかった人が、何も知らずに座っている。
せめてキム次長が居てくれたなら、仕事の話をしながらでも、自分とミニョンの間を取り持ってもらえたのに…。
ユジンは米国で別れた時のミニョンの頑(なさを、どこから切り崩せば良いのか分からなかった。
でも、とにかく逢うことが出来たのだ。
それは決して悪いことではない。
ユジンはそう気持ちを持ち直すと、テーブル越しにミニョンを正面から捉えられる席に座った。
ミニョンは手に握らされたビールの瓶の形状を、ゆっくりと掌で確かめている。
小さな窪みを指先で見つけると、フッと小さな笑みを浮かべ、また次の場所に手先を動かす。
その姿は宝探しをしている無邪気な子供のようだ。
だが、程なくその手を止めると顔を上げた。
「キム次長?」
バーのざわめきに慣れてくると、ミニョンは自分の近くに人の気配がしない事に気が付いた。
「居ないんですか?」
テーブルの位置を確かめてから、持っていたビールを置くと、自分の左右に手を伸ばす。
その様子に、ユジンは慌てて声を掛けようとした。
だが、悲しいかな、彼と意思の疎通が出来てない今、目の前に居るのが自分だと知ったら、きっと彼は身を固くしてしまう。
そう思うとなんだかそれも躊躇(われ、ユジンは声を出さずに彷徨(うミニョンの手だけを咄嗟(に握りしめた。
その刹那(、ミニョンはビクッと肩を振るわせ驚きの表情を浮かべる。
が、それも一時の事で、すぐにそれは安堵に変わった。
「すいません。誰も居ないのかと思って慌ててしまって…。僕の前に座って居られたのですね。でも…変だな?この手はキム次長じゃない…」
「…」
ユジンはそう言われて尚更、言葉を失った。
「あなたは…?」
ミニョンは一言も発しない手の主を探るように呟く。
気が付かないはずが無かった。
だからミニョンが「あっ!」と小さく叫ぶと、ユジンは手を振りほどかれないように力を込めた。
そして、小刻みに震えながら更にもう片方の手で、ミニョンの手を包む。
「ユジン…」
ユジンは名前を呼ばれても返事をしようとはしなかった。
だが、ミニョンは重ねられた手を通して伝わってくる振動で、それが間違いではないと悟った。
「ユジン…」
何度呼ばれても口を閉ざすユジン。
それは声を失った人魚姫のようだ。
ミニョンはテーブルの上に繋がったままの手を静かに置くと、一番上にあるユジンの手に空いている方の自分の手を重ねた。
そして、ゆっくりとユジンの両手を剥(がすと何を思ったかスッと立ち上がった。
やはり帰ってしまうのだろうか?
ユジンは立ち上がったミニョンを、涙で見失わないようにじっと見つめている。
震える手。喋らない口。痛いほどの視線。
それを全て、心を鬼にして捨てなければいけない。それは今まで自分に課してきた事だ。
イ・ミニョンならそれが出来る、いや、しなければならない。
そう決めたのは自分じゃないか!
震える手。喋らない口。痛いほどの視線。
それが何を意味するか分かっているだろう、ジュンサン。
手を伸ばせば、ユジンを抱きしめる事だって出来る。
自分を守る為のつまらない意地なんて捨ててしまえばいい!
暗闇と喧騒の中で、2人の自分がせめぎ合っている。
だから、立ち上がってみたものの次の1歩が踏み出せないのだ。
選べない自分。
ミニョンは米国で出来ていた事が、韓国で出来なくなっている事実に狼狽(えた。
と、その時だった。
『あなたが光を失うのなら、私は言葉を失います。だから…愛してもいいですか?』
掌になぞられていく文字。
それは歩き出せないミニョンの迷いを解こうとする呪文にも似ていた。
「どうしてなんだ…」
ユジンが手を放すと、ミニョンのかすれた声が問うた。
「君はいつも泣いてばかりで、そんなに強くは無かったじゃないか…」
声を封印したユジンは、返事の代わりにミニョンを強く抱きしめた。
辛い時に、ミニョンが、ジュンサンが、自分にそうしてくれたように…
きっとこの愛は届く。
ユジンは全身全霊を賭けて、ミニョンの中にそびえる山を越えようとしていた。