2人のジュンサン 【1】
バタン!
ジュンは寝室のドアを開けて中を見渡すと、うんざりした顔でそのままドアを閉めた。
やっぱり、確かめるんじゃなかった…
ジュンは酔いが回ってきた頭を廻らし、自分の不甲斐なさを嘆いた。
ホテルは整然として、掃除が行き届いているのが当たり前。
それを殺風景だとか、他人行儀でよそよそしいと感じるのはお門違いも甚(だしい。
だが、最近のジュンは、仕事から帰って来ると、乱れていたはずの部屋が綺麗に整頓されている事自体、我慢ならなくなっていた。
いつも、いつもリセットされてしまう生活に疲れたのだ。
韓国という慣れない土地で自分を取り巻く環境が激変し、ストレスにさらされている今、ジュンに必要なのは癒されるべき場所だった。
脱ぎ散らかした服があっても、ホコリをかぶったTVがあってもいい。
自分の存在が消されていない空間が、ジュンは無性に欲しかった。
「あと半年の辛抱か…」
ジュンはソファに戻るとテーブルの上にあった冷たいグラスを額に乗せ、自らを静めるように言い聞かせた。
今建設中のマンションが出来上がれば、ミニョンと共に引っ越す予定は出来ている。
そうだ!もう少し暑くなったら、ミニョンを連れて済州島(チェジュド)に避暑に行こう。
ジュンは額の上にある氷の輝きを見て、照りつける太陽と海を連想してそう思い立った。
あちらでコンドミニアムでも借りれば、気分もまた変わる。
そうすれば、戻ってきた時、この部屋もまた違った風に見えるかもしれない。
それは淡い期待だったが、無いよりはましだった。
善は急げ。
ジュンはコップをテーブルに戻すと、さっそく韓国の地図を探し始めた。
済州島(チェジュド)が韓国有数の観光地だと知っていても、この国に来てまだ日が浅いジュンにとって、その場所は定かではない。
ルルルル…
そんな時にその電話は鳴った。
ジュンはとっさに『地図』とだけ表記されている本を手にすると、急いで受話器を取った。
パラパラとページを繰りながら韓国のページを探していたジュンは、交換手の問いかけも流すように聞いている。
だから「では、お繋ぎ致します」と言われても、ジュンは電話の相手がどこの誰かも分かっていなかった。
はやる気持ちは済州島(チェジュド)に、自分の環境を変えてくれる楽園の地に向かっていた。
「もしもし…、もしもし…姉さん?」
姉さん?
ジュンはそう呼ばれて、両手を空けるために肩と耳で押さえていた受話器に意識を集中した。
「もしもし、ジュン姉さん!聞いてるの?」
間違いない!
それはこの世に1人しかいない弟からの電話だった。
ジュンは持っていた本を手から落とすと、急いで受話器を握りしめた。
その顔は先程までのせっぱ詰まった様子と違って、嬉しさに満ちている。
「ちゃんと聞いてるわよ。でも、どうしたの?電話なんて珍しいじゃない」
「今までは時差があったからさ、姉さんに気を遣ってあんまりしなかっただけだよ。でもこの距離だと無いに等しいから、試しに掛けてみたんだ」
「時差が無いって、それどういう事?あなた、米国にいないの?」
「…うん」
「じゃあ、何処?」
ジュンはドキドキしながら返事を待った。
「…日本」
「ホント!じゃあ、留学が決まったのね!」
「…うん」
「おめでとう!やったじゃない!」
照れながら小さな声で答える弟を、ジュンは褒めそやした。
事故で足首から先を失った弟は、小さいときから義足を使うことを余儀なくされてきた。
その義足は身体の成長と共に大きさを変えなければならないのだが、その度ごとに作ってもらう義足はなかなか足にフィットすることがなく、弟はいつもそれが足に慣れるまで苦労していた。
そうした日々の中で、弟がある日、顔を紅潮させ、転がるように家に帰って来た事があった。
息も整わない内にズボンをたくし上げ、「見てよ、これ!」と差し出した先にあったのは義足。
「それがどうしたの?」
家族の誰もがいつもと変わらない光景に大した反応を見せない中、弟は新調したばかりの義足のフィット感を力説した。
「今までこんなに足が軽く感じられた事なんてなかったんだ…」
最後には、うっすらと涙まで浮かべて愛おしそうに義足を撫でていた弟のその喜びは、その後、彼の希望に変わる。
僕もこんな風に、身体の不自由な人に喜びを与えたい。
それから弟は、義足を作る技師になるべく勉強を始めた。
「日本人の手先の器用さは、きっと東洋人の血を半分引いている僕にだってあるよね…」
弟は勉強を進める中で、自分の義足を作ってくれた日本人の技師を思い出しては、よくそう口にした。
そして、弟の意識は日本に行って技術を学ぶ事に注がれ、いつしか、その手立てを探すようになっていた。
その夢が叶う。
それはジュンにとって、自分の事以上の喜びだった。
「これからは近くにいるのね。姉さん、それだけで心強いわ…」
「それは僕も同じだよ」
「そうだ!近いんだし、夏休みにこちらに遊びに来なさいよ。丁度、今、避暑地を探していた所なの」
「うん、そうするよ」
「それと…、日本にいる間も、頼んであった事お願いね」
「うん、それも分かってる。ちゃんと調べるから。大丈夫、きっと見つかるよ、僕の時みたいにね…」
「ありがとう、ジュンサン…」
ジュンは、かさついていた心に沁(みてくる弟の優しい声に、救われる思いだった。