2人のジュンサン 【2】
右手を軽く握ってみる。
すると、掌の中にはユジンの手の感触が蘇る。
それから、ユジンの顔を思い浮べると、僕の隣にはユジンがいた。
あの晩、ユジンはあれから何も言わず、ただ、僕の手を取り、僕の進むべき方向に僕を導いた。
その姿を僕は見られなかったけれど、なぜだか頭の中には凛として顔を上げ、しっかりとした足取りで進むユジンがいた。
その頭の中のユジンは、懐かしい高校生の姿で、長い髪をなびかせている。
そうか…
あの時は分からなかったけれど、あれは出逢った頃のユジンだ。
いつでも元気が良くて、何に対しても一生懸命で、キラキラ輝いて。
間違いない、それは僕が最初に愛したユジンだった。
僕は隣にいる、実体のないユジンに手を伸ばした。
だが、いくら手を伸ばしても、遠い記憶の中にいるユジンと同じように掴むことが出来ない。
ふぅ…
ミニョンは長い息を吐きながら、独り高校生の頃に戻ったユジンの事を考えた。
強くしなやかな枝が沢山の若芽を息吹かせて、空に向かって伸びていく。
彼女は今、きっと、そんな顔をしているのだろう、と。
―――――
「いらっしゃいませ」
ジュンがブティックのドアを押すと、店員の愛想のいい声が店内に広がった。
その声を気持ちよく浴びながら、ジュンは店の一番奥まで真っ直ぐと向かう。
「今日は、オーナーいらっしゃいます?」
「はい。少々お待ち下さい」
レジカウンターの前にいた店員は、顔見知りのジュンに丁寧に答えるとインターホンを押した。
「あら、ジュンさん、いらっしゃい」
「こんにちは」
ジュンは階段から下りてきたオーナーである女性の顔を見ると、パッと顔を輝かせた。
彼女は韓国に来てまだ日の浅いジュンにとって、話が出来る数少ない相手の1人でもある。
「今日はどうされます?」
「えっと…、あの…」
うつむき加減のジュンにオーナーは微笑みかけた。
だが、ジュンはいつもの切れの良い口調からは想像できない程しどろもどろになると、モジモジしたまま結局は何も言い出せない。
その様子からピンきたのだろう、オーナーはうふふと小さな声を出すと「お探しなのは男物ですか?」と聞き直した。
「あ…はい…」
やっぱり…
ジュンの返事を聞いて、オーナーは首にかかる巻き毛を後ろに払う。
その態度には、恋愛の事なら任せておきなさいという自信が満ちあふれていた。
「背は高さはどのくらいですか?それと体格は?痩せてる、それともガッチリ?」
「背は180p位、体格は…筋肉質だからガッチリですね」
「普段はどんな服を着てるのかしら?」
「仕事の時も、普段も、堅苦しい服は余り着ません。色も明るい色が多いし…」
オーナーはそれを聞いてから、男物を掛けてあるコーナーの一角をゆっくりと歩いた。
そして時折、ハンガーを引き抜いてはそれを掲げ、最終的に3枚のシャツを選ぶとそれをジュンの元に差し出した。
「ジュンさんのお話から想像すると、こんな感じなら似合うと思うんだけど…」
ジュンは出された服を一枚一枚吟味すると、満足そうな顔を見せた。
「さすがです!やっぱりチェリンさんはセンスが良いですね。私が選ぶと迷うばかりで、これって物を選べないから…」
「その辺りの服なら、最初のプレゼントとしては無難ですよ。もらっても、それほど重くもなく、かといって安っぽい感じもしないし。
ところで、ジュンさんの彼氏ってどんな人なの?仕事は?何してる人?」
オーナーであるチェリンはジュンから選んだ服の合格をもらうと、親近感を持ってジュンに尋ねた。
「仕事は…建築関係です。会社の責任者で、建物全体をプロデュースしたり、設計したりしています」
「ふ〜ん、責任者って事は偉いのね。じゃあ将来有望じゃない。それにジュンさんのお眼鏡にかなうってことは、きっとハンサムなんでしょう?」
ジュンはチェリンの冷やかすような視線に照れていたが、そうやってあれこれ詮索されるのもまんざら嫌な気分でもなかった。
なにより、まだ恋人と呼べないミニョンをここでなら彼氏と言ってはばかることも無い。
「チェリンさん、実は最初にこのお店を紹介してくれたのは彼なんです」
「まあ!それは、それは光栄だわ」
「まだ韓国に来たばかりで、右も左も分からなかった時に、私、仕事でパーティーに出なきゃならなくなってしまったんです。
でも、そんな改まった服を持ってなかったので困ってしまって…、そうしたら彼がドレスはこちらのお店で買うといいって言ってくれたので…それで…」
「あぁ…、それで一番最初にお店に来たときにドレスを選んだのね」
「はい、あの時は助かりました。オドオドしてる私にチェリンさんが優しく声を掛けてくださって…」
「それはこちらは商売ですからね。でも良かったわ、あなたの彼のおかげでお得意さまが増えて」
チェリンは言い終わるとジュンと顔を見合わせて笑った。
それからジュンは、チェリンが選んだ3枚のシャツの中から1枚を選び、それが包装されている間、店内を歩き回ってショーウィンドーを眺めた。
「ジュンさん、出来ました」
チェリンは紙袋を持って、そんなジュンの後ろ姿に声を掛けた。
「やはり気になります?」
「えっ?」
チェリンは振り返ったジュンを羨ましそうに眺めている。
「今、ウエディングドレスをご覧になっていたようだったから…」
「そんな…、違います…」ジュンは真っ赤になって否定した。
「じゃあ、これどうぞ…」
チェリンは紙袋を差し出すと「彼が気に入ってくれると良いですね」と付け加えた。
すると、紙袋を受け取ろうとしたジュンの手が止まり、それを不思議に思ったチェリンはジュンの顔を覗き込んだ。
「どうかしましたか?」
「彼…見えないんです…目が…」
「それは…ごめんなさい、余計なことを言ってしまって…」
チェリンは慌てて謝ると、今度は紙袋を自らジュンの手に握らせた。
「大丈夫、きっと似合いますよ」
チェリンは紙袋と共にジュンの手を握り、優しく微笑む。
ジュンはチェリンの優しさに触れて気持ちを持ち直したのか、すぐに潤んだ瞳でチェリンを見返すと、ゆっくりと頷いた。
「幸せそうだと思ったのに、やっぱり色々とあるのねぇ…」
チェリンはジュンが店を後にすると、深いため息をつきながら2階に上がる階段に向かった。
だが、その足は階段を踏み上がる位置まで来たかと思うとピタリと止まり、その手は手すりを掴んだまま動かない。
最初それは沢山の点に過ぎなかった。
ジュンの言った言葉の1つ1つはありふれたものだったからだ。
だが、目が見えない…そう、言った最後の一言は違う。
それはチェリンにある人物を思い起こさせた。
そうして考えると不思議な事に、ジュンの言ったありふれた言葉は、彼の為に用意されたパズルのようにピタリと合わさった。
「まさか…」
最初、その突拍子もない想像をチェリンはかぶりを振って頭から消そうとした。
だが、考えれば考えるほど、それは確信となって、チェリンの頭を占めていく。
『優秀な片腕と一緒だった…』『問題はその人が女性でしかも美人だということなんだ…』
なんてことなの…、サンヒョク、私はあなたに聞く以前から彼女を知っていたのよ。
そして、そんな、かけがえのない人物である彼女が必要としているのは…
「ジュンサン、あなたなの…」
そう呟いたチェリンの声は、小さく震えていた。
困惑と不安でどうしようもない気持ちを抑えるように。