過去がもたらすもの 【1】
ジュンサン…
それは、今までにどれくらい呼んだか分からない弟の名前だ。
だがその名前を呼ぶたびに、私は胸に小さな痛みを感じてきた。
それはあの時、呼ばなければならなかったその名前を、声に出して発することが出来なかった罪悪感がそうさせているのかもしれない。
そう…、たった一度、あの瞬間だけ。
私の声は息と共に止まってしまった。
あれはまだ私も弟も小さかった頃だ。
あの日、仲の良かった私達姉弟は家の前の道路で自転車に乗って遊んでいた。
前日にやっと自転車に乗れるようになった私は嬉しくて、三輪車にまたがる弟の事なんて眼中になく、だた夢中でペダルを漕いでいた。
弟はそれが気に入らなかったのだろう。
私が弟の前を3往復して通り過ぎた時、急に大声で泣だした。
私は仕方なく自転車から降りると、弟の側に近寄って「どうしたの?」と聞くだけ聞いた。
昨日までは同じ三輪車仲間だったのだから、理由は聞かなくても見当は付いていたが、一応、姉としてはそうして聞いてあげることが親切だと思ったのだ。
「僕も自転車がいい!僕も自転車に乗る!」
案の定、弟は涙で顔を濡らしながらそう言った。
私はそんな弟の顔を見ながら、どうしようかと迷ったが、ここで弟の言うことをちょっと聞いてあげた方が、このまま泣かせ続けるよりはいいと思った。
第一、この泣き声が両親の耳に届いてしまったら、怒られるのは私なのだ。
そうしたら、せっかくの自転車に乗る楽しみは取り上げられてしまう。
「じゃ、ちょっとだけね」
昨日乗れたばかりだと言うのに、私はすっかり自信満々で弟にそう言うと、得意顔で自転車の乗り方を伝授した。
「お姉ちゃん、ちゃんと持っていてね」
「うん」
荷台を持つ私は、弟がそろそろと漕ぎだしたペダルにあわせて小走りで後をついていく。
幸い、そこは少し坂道だったので、小さな弟でもペダルを楽に漕ぐことが出来た。
そうして、なんとか通りの真ん中まで行くと、私は荷台を持ちながら、弟に自転車を降りるように言った。
「重いから早く降りて…」
だが弟は、何を思ったか、いつまで経っても自転車から降りようとしなかった。
そうして、私が手の痛みを覚えた頃、弟は勢いよく再びペダルを漕ぎだした。
あっ!と思った時は遅かった。
私の手を離れた自転車は、そこから急な坂になっている道路をグラグラしながら遠ざかっていく。
だが所詮、上手くバランスが取れたのは、ほんのちょっとの間だった。
弟はすぐに自転車ごと倒れ、私はそれ見たことかと思いながら、その様子を眺めていた。
いくら運動神経が良くったって、そう簡単にはいかない。
私だって、乗れるようになるまで何度倒れたかしれないのだ。
やれやれ…
再び泣き出した弟を助け起こすために、ノロノロと足を運び始めた私は、だが次の瞬間、目の前に迫る光景に呆然と立ちつくした。
弟は倒れた場所が悪かった。
そこは向こうからは見通しの悪い、上り坂のカーブの終わり付近だったのだ。
アクセルの音を響かせた大型トラックが弟に迫る。
スローモーションを見ているようなその光景を、私は凍り付いたように、ただ黙って見ていた。
すぐに急ブレーキの音が耳をつんざく。
すると、私は半分気を失いながら、地面に倒れ込でいた。
その混濁する意識の中で、人々のざわめく声だけが私の耳に届けられる。
それは姉としてのささやかな抵抗だった。
弟の身体がどうなってしまったのか知らないで、このまま眠るわけにいかない。
「大変だ!交通事故だよ!早く救急車を呼んでくれ!!」
「ああ、でも大丈夫、子供は生きてるよ!」
「血を止めないと、誰かタオルか何か持ってきてくれないか!!」
「片足は粉々だ。これじゃあ、もう自分の足で歩けないねぇ…」
幼かった私にしては、随分と長い時間、頑張っていたと思う。
だが、最後の「歩けない…」の言葉は、微かに保っていた意識の糸を切るのに十分だった。
私はその刹那、罪から逃れるように意識を失った。
地面に流れ落ちる涙を残して…。
あれから20年。
私は心に呵責を負ったまま過ごしていた。
ジュンサン!
せめて、あの時、そう叫んでいたら…
弟はトラックに気が付いて、もしかしたら足を失わなくてすんだかもしれない。
大好きな弟を守れなかった事実は、悔やんでも悔やみきれない。
そして、弟をあんな身体にしてしまった痛みは、時々思い出したように疼(き、私をあの場面に引き戻す。
だが…
そんなトラウマを抱える私の前に、あの日、彼は現れた。
目が見えないという、弟よりもっと重い障害を持つ彼は、しかし、そんな素振りも見せず、見えてないはずの私に微笑んでくれた。
私は彼を見ると安心できた。
健常者と変わらない、いやそれ以上の仕事や生活ができる彼の姿は、私にとって希望そのものだったから…。
そんな彼を、私が愛するようになるのは時間の問題だった。
そして思った通り、それはやがて現実になり、私はやっと癒される時間を持つことが出来たのだ。
端から見れば、それは彼と弟を重ね合わせた、独りよがりの贖罪(とも取られ兼ねない。
がだ、どうしようもない…どんな意味を持つにせよ…彼を愛しているのだから…。
春川第一高校の職員室で聞いた、カン・ジュンサンという名前。
そんな事もあって、私は忘れていなかった。
ただカン・ミヒを母親に持つ、不幸な境遇で産まれたであろう彼は、あの時はどこか遠くの人物だった。
だが…今は違う。
カン・ジュンサンは、今も耳に残るあの甲高い声の中にあった『ジュンサン』に違いない。
その指し示す意味を…、私は知らなければならない。
ジュンは椅子から立ち上がると、キーを持って部屋を出た。
そして、ミニョンの部屋の前に立つと、震えるその手で呼び鈴を押した。