見えない出口 【1】




赤子の手をひねるようなもの…誘惑するのはそれくらい簡単に思えた。
韓国の女性がどうなのかは知らないが、米国では女性が男性を誘うこと自体それほど不自然なことではない。
好きなら手に入れたいと思うのは当然の欲求で、女性だからそれをしてはいけないなんて言うのはナンセンスきわまる話だ。
だから私は理事の手を引き寄せた。
今の理事なら理性や感情の抑制が利かず、本能の赴くまま行動するかもしれないと思ったからだ。

人は時に温もりを欲する。
寂しさや悲しさといった陰の感情が溢れ出たとき、その傷口をふさぐのはやはり同じ人間の持つ励ましや慰めといった陽の感情であり、人の温情なのだ。
そしてその結果、癒されて再び生きる力を得たならば、人と人との結びつきでこれほど素晴らしいことはない。

ただ、私も誘惑がそこまで正当化される行為だとは思っていなかった。
なぜならそこにあるのは無償の愛ではなく、計略の愛だからだ。
それは天と地ほどの差があり、それはそのまま私とユジンさんの差に繋がる。
私とユジンさんの違い…
理事の話を聞いた今、それは考えたくなくても頭から離れない。

彼女ならこんな時どうするのだろう。
ふと、そんな事も頭を過ぎったが、それは考えるだけ時間の無駄だった。
私には彼女がどんな顔でどんな風に理事に接するのか、見えていたも同然だったから…
そう、私はずっと感じていた。
理事が話を始めた時、ユジンさんが理事にそっと寄り添っていたのを。
そうでなければ、あの(かたく)なだった理事が話そうとするわけがない。
ユジンさんがきっと理事の背中を押したのだ。
話して楽になりなさいと…

私は理事と向き合っていたが、その顔を見られないでいた。
だからおのずと手元にある理事の手ばかりを見ていたことになる。
大きくて柔らかなその手は、間近で見ると所々ゴツゴツとして小さな傷もあり、幾度となく越えてきた試練の痕跡を示しているかのようにも思えた。
その彼の人生を写し取ったような手に、自分の感情を忍ばせた手を重ねると、その瞬間だけは私も彼の痛みを感じる事が出来たような気がした。
今までユジンさんだけが背負っていただろうその痛みを私も共有する。
それはこの刹那だけでも、彼を自分のものにしたいと思う強い気持ちの表れだった。

そう…、今ならそれが出来る。
しかし結局、私は誘惑の甘い言葉も出せず、私に為すがままにされている理事の手を握りしめたまま動けないでいた。
イ・ミニョンとカン・ジュンサンが再び出会ったこの運命の時、この場に居るべき人物は本当は私じゃない。
恐る恐る見上げた理事の顔はそれを如実に表していた。
無垢の心を持った理事の瞳は、見えないからこそ見たいものを見ているようだ。

チョン・ユジン…
やはり彼女でなければいけないのだろうか…
運命が彼女を呼ぶのか…

それならば、私は彼が再びユジンさんと巡り逢わないように運命を握ろう。
彼の目が暗闇に捕らわれ続けていれば、私はずっと側にいられるのだから…

日本にいるジュンサンからついさっきメールが届いた。
そのメールを読んであげたくて持ってきたけれど、これはもう必要ない。

『前々から姉さんに頼まれていた事だけど、やっと見つけたよ!
スイスにいる日本人の脳外科医は神の手を持つそうだ。
日本の医学界では発展的すぎるという理由で追い出されたらしいけど、今じゃその腕前はヨーロッパ中に知れ渡り、手術は1年先まで決まっているんだって。
この人なら姉さんの大切な人を救えるんじゃないかな?
研修先の病院でこの人の恩師と知り合って得た情報だから、頼めばきっと診てもらえると思う。
いい話だろう。
これで姉さんの願いも叶うかも知れない…   ジュンサン』