見えない出口 【3】
「ユジンさん、ちょっと…」
マルシアンで行われていた定例会議が終わると、キム次長は部屋を出ようとするユジンを呼び止めた。
その顔はいつも以上に人なつっこく、とても嬉しそうに見える。
ユジンはその態度から、キム次長が自分を呼び止めた理由を簡単に想像できた。
それくらい、キム次長は自分の感情に素直で、物事を真っ直ぐに捉えられる目を持っていた。
「ユジンさん、ありがとう」
会議室に誰も居なくなると、キム次長は開口一番ユジンに御礼を言った。
「お陰様でやっと和解できました」
「じゃあ、ジョンアさんから連絡が?」
「はい。先日、話がしたいとジョンアさんから電話があって、その日の夜に逢う約束をしました」
「そこで今までの事、ちゃんと2人で話し合えたんですね?」
キム次長はユジンの言葉に頷くと、はにかんだような笑顔を向けた。
「良かった〜」
ユジンはその笑顔を見て、ホッとした気持ちを言葉に乗せた。
「ジョンアさんが言ってました。ユジンさんが自分の不安な気持ちを消してくれたって。それで私との事も、もう一度前向きに考えられるようになったそうです」
今度はその言葉にユジンが頷いた。
「それにしてもユジンさん、いったいどんな魔法を使ったんです?人の話に耳を貸そうとしなかったあのジョンアさんが、あんなに素直になるなんて…」
「それはナイショです」
ユジンは含み笑いをしながらそう言うと、不思議がるキム次長の横をすり抜けてドアに手を掛けた。
今日はこのまま現場に向かう予定なので、そうそうゆっくりもしていられないのだ。
すると肩越しにキム次長の声がした。
「ユジンさん、現場に行くんでしょう?それなら私が車で送りますよ」
パリにずっと居たせいか、3年ぶりのソウルの夏は尚更ユジンにとって暑く感じられた。
特にここ最近は吸い込む空気まで暑くて、クーラーの効いている部屋に入ると生き返るような気持ちさえする。
だが、そのクーラーの効いていたはずのマルシアンの会議室は、今日もユジンにとって心地良い場所ではなかった。
それは外よりも、もっと息苦しい場所。
そんな場所になってもう何日になるだろう。
テーブルの上手に座るミニョンとその隣に座るジュン、そして同じ列の下手に座るユジン。
そうやってお互い同じ方向を向いて座っていれば、覗き込みでもしない限り、それぞれがどんな表情でいるのか分からない。
もちろん会議をしていれば、よほどの事がない限り覗き込むなどという事はしない訳だから、そうなると一緒の空間にいても話はおろか、その表情を見る事も簡単には出来ないことになる。
マンションの発注主に向けて、仕事の進捗状況だけが淡々と話される中、聞こえてくるミニョンの事務的な声の中に、何かを読みとろうとする努力をユジンは何度したかしれない。
でも、それは何度しても自分の体を中をすり抜けるだけで、心の中に引っかかる事さえなかった。
そして、会議が終われば終わったで始まる時と同様、ジュンがまるでボディーガードのようにミニョンに寄り添い、彼を連れてそそくさと部屋を出ていくのだ。
これでは、いっそ顔を合わせない方がどれだけいいか。
ユジンはマルシアンに来る度にそう思うようになっていた。
「…ユジンさん?ユジンさん、聞いてます?」
「えっ?」
「大丈夫ですか?」
キム次長は信号で止まると車のハンドルを握りながら、ユジンの顔を心配そうに覗き込んだ。
「ああ、すいません。ちょっとボーっとしてて…で、何の話ですか?」
「いや、話はたいしたことないからいいんですが、それよりユジンさんのその悩みの方が心配です」
キム次長はボーっとしていたというユジンの返事を聞くと、やっぱりという顔つきになってそれを勝手に悩み事だと解釈した。
もちろん、ユジンはミニョンの事を考えていたので、その解釈はあながち間違いではない。
だが、その悩みの内容はユジンとキム次長では大きな差があり、問題なのはそれにキム次長が気付かない事だった。
「やっぱり何かあったんですね…」
だから、車を発進させながらキム次長が深刻そうな声を出しても、ユジンにはキム次長が何を言わんとしているのか分からなかった。
その無警戒の自分に向けて発せられたキム次長の言葉に、ユジンは耳を疑った。
「私は自分の恋愛も上手く回せてないけど、それでもカンは良い方だと思っています。
その私が感じるんです。会社の中の雰囲気が最近、変わったって…。
リ室長がとても有能で、会社にとってなくてはならない人であるのは私も認めます。
でも、ああ、あからさまな態度でイ理事に接するのはどうかと思うんですよ。
何をするにもまるで奥さん気取りで…、それをまた、イ理事も何も言わないで認めたようにしている。
まったく…、ユジンさんがいるというのに、いったいどうなってるんだと私だって思います」
前を見て運転してるキム次長には、この時、ユジンがどんな顔で横に座っていたか知る由もない。
それだけが、お互いにとっての救いだった。
そこから目的地に着くまでの数分、ユジンは何も考えられないまま、簡単な相づちを打ちながらなんとかその場をしのいでいた。
しかしその胸中は黒い雲が広がり、どうしようもない寂しさで今にも大粒の雨が降り出しそうになっていた。