見えない出口 【4】
「理事、少し休まないと体を壊しますよ」
「後ちょっとだけ…、この書類を頭に入れ終わったら休むよ」
「分かりました。それじゃあ、理事が書類を机に置いたらコーヒーを入れますね」
「ああ、そうしてくれ」
マンション建設現場の横にある事務所の一角で、ミニョンは図面のチェックに余念がなかった。
念のためジュンに図面を文章化してもらったマンション全体の構成図は、エレベーターの位置や非常階段の場所など、自分が指示した通りに出来ているか確かめるために必要な書類だ。
これを頭に入れ、それを後で自分の手で確認する。
マンションのほとんどの壁が出来つつある今、それは自分が納得する為にどうしてもやっておかなければならない仕事だった。
ふぅ…
ジュンは、ミニョンがため息と共に書類をテーブルに置くのを見て席を立った。
そして数分後、コーヒーの香り立つ匂いと共に現れたジュンは、椅子の背もたれに頭を乗せたまま目をつぶっているミニョンの横顔を見て、満足そうに微笑んだ。
ミニョンはあの日、ジュンに全てを話してから一層仕事に打ち込むようになった。
それがどうしてそうなったのかは分からない。
でも、ジュンにとって理由なんてどうでもよかった。
とにかくミニョンが仕事だけに心を砕いて、他の事に揺るがなければそれでいいのだ。
仕事で忙しくなると、必然的にミニョンの身の回りの雑用はジュンがする事になる。
それは、まるで自分がミニョンの秘書、いや奥さんになったような錯覚をジュンに与えていた。
「ありがとう」
コーヒーが机の上に置かれると、ミニョンは体を起こして、いつもの場所に手を伸ばした。
体が覚えている感覚の通りに手を開いて、そっと触れるとそこにコーヒーカップがある。
毎日やっているのだから当然といえば当然だが、それでもジュンのやる事はそつがなかった。
それは仕事でも言える。
図面を文章にして、しかもそれを点字で打つ作業は簡単ではない。
でも、ジュンはそれを難なくこなし、細々とした雑用まで先回りしてやっていた。
「リ室長、君も体を壊さないようにしてくれよ」
ミニョンはコーヒーを一口飲むと、顔を上げて自分の目の前にいるだろうジュンに向かって言った。
「私ですか?」
「ああ、そうだ。君がいてくれないと僕は仕事が出来ない」
「理事、心配には及びません。次に理事が読むべき資料はもう出来ていますから」
ミニョンはジュンのその返事を聞いて、少しだけ唇の端を持ち上げた。
そしてジュンも、それだけ言うと同じように唇に微笑みを浮かべて踵(を返した。
仕事だけを考え完璧にこなす。
それが僕のとった最善の方法だった。
あの日、カン・ジュンサンとしての過去をジュンに話して空っぽになった僕は、その後の自分をどうコントロールしたらいいか分からなくなっていた。
そして押し込んでいた過去をさらす事で、押し込まれていた感情も呼び起こされてしまった僕は、自分を遠ざけて、意思を持たない操り人形のような生活を送る道を選んだのだ。
リ室長はその点、僕にとって必要なパートナーだった。
彼女は他の事を考える暇もない位、僕に仕事を与えてくれる。
そうして過ごす毎日のおかげで、僕は食事を済ませてホテルに帰ると疲れ切って泥のように眠るだけで済んだ。
何も見ず…、何も考えず…、ただそうやって生きていく。
そう…、これこそが米国で考えた僕のこれからの生き方だ。
カン・ジュンサンに戻れないならば、ユジンと共に生きる道を選ぶべきではないと決めた僕の生き方だ。
これでいい…これで…
ユジンだってこんな状況が長く続けば、きっと僕を見限る。
そうして、明るくて健康な彼女は、別の彼女の幸せを見つけるだろう。
ミニョンはコーヒーを飲み終わると、「ちょっと外の空気を吸ってくる」とジュンに言い残して外に出た。
そして川辺にある、お気に入りの場所に座ると見えない空を仰いだ。
『ポラリスと仕事の契約は今後もうしませんが、それでいいですね』
ジュンがそう言ったのは、昨日の事だ。
仕事の最中に、それは忘れていた事を思い出したような軽い言い方だった。
だから、僕もことさら気にとめない素振りで静かに頷いた。
そうやって、僕はユジンとの繋がりをあっけなく失った。
このマンションの建設が終われば、僕とユジンはもう会う事もない。
ならば、願わくば、ユジンが施(してくれる僕の住まいとなる部屋の内装は、彼女を何一つ思い起こさせる事がないよう、簡素であって欲しい。
僕の心が焦がれるばかりに、ユジンを夢で追わないように…。
そして僕の魂が、夜な夜な懐かしんで、体から抜け出してしまわないように…。
ミニョンは、川面を渡って来る風を気持ちよさそうに受けると、サングラスの奥から流れ落ちる涙をゆっくりと拭った。
いくら操り人形だとしても、溢れてくる涙だけはどうしようもない。
その直後だった。キム次長が背後からミニョンを呼んだ。
「イ理事!ここにいたんですか!」
その声はいつになく緊迫している。
「どうかしましたかキム次長、そんなに慌てて…」
「大変です、すぐ来て下さい。どうやら溶接作業中に火災が発生したようで、現場が大変な事になってます」
急な知らせでキム次長とマンションに戻ったミニョンは、騒然とする現場で大声を出した。
「キム次長、状況はどうなっているんです!けが人は?まず皆が無事か確認してください!」
そう言われたキム次長は、必死でジュンの姿を探していた。
火災が報告された時点で、ジュンには消防に通報する事とマンションで今日作業している業者全員の点呼をとるよう指示してあったのだ。
「リ室長―!!」
その声で振り向いたジュンは手に名簿を持って駆け寄ってきた。
「状況は?」
「火災の方はぼや程度だったので大事には至らなかったのですが、煙が少し室内に入ってしまって…、業者の点呼は今やっている最中ですが、それも後、数人です」
ジュンはそう言い終わると、再び入口付近で点呼確認をしている男性の側に走り寄った。
その後を、ミニョンを連れたキム次長が続く。
「どう、全員そろった?」
ジュンの問いかけに、その男性は顔を上げて短く首を振る。
「ポラリスのチョン・ユジンさんだけが、まだ確認取れません」
その瞬間、その場の空気は凍り付いたように張りつめた。
しかしその中をミニョンだけが身を翻(し、まだ微かに煙が立ち上るマンションの入口に向かって走り出していた。