ポラリス 【1】




非常階段は2つ。
身体障害者が多く住むマンションになるなら、その方が安心だと設計したのは他ならないミニョンだった。
その近い方の階段に向かって、彼は走っていた。
まるで風が通り抜けるようなスピードで。

ついさっきまで頭に叩き込んでいた図面が、網膜の裏に立体図を見せる。
それはあたかも見えているかのように、彼の足を動かしていた。
ただ前に、そして先へ。
何も考えず、進むことだけが使命のように。
そうしてやっと目的の階段の手すりに右手を掛けたとき、ミニョンはハッとして我に返った。

彼には分からなかった。
自分がなぜここにいるのか。
そして、どこへ向かおうとしているのか。
ミニョンは頭で考える事なしに、全ての行動を起こしていた。
それは彼にとって本能だったのかもしれない。

今まで幾度となく、彼は救ってきたのだ。
この手で、この胸で。
それは彼が彼である以上、どんな風に振る舞っていても変わることはない。

ミニョンは、煙を吸ってヒリヒリとする喉の痛みで、この場所にいる現実を理解した。
そして、そんな危険を冒してでも自分がここまで進んできた理由も…。

「ユジン…」
ミニョンは青ざめた唇でその名前を呟いた。
そして、次の瞬間、咳き込む喉で大きく息を吸うと、息を止めて非常階段を駆け上がった。

ユジン、君はどこにいる…
彼女の担当は自由設計タイプ、それは最上階から下3フロアしかない。
そのどこかにいるとしたら…
それは、たぶん…

「ユジン!!」
ミニョンは自分が住む予定になっている部屋の扉を開けると、大声でユジンの名前を呼んだ。
「ユジン!どこだ!」
ミニョンは咳き込みながら、声を張り上げる。

手探りで壁を伝い、名前を呼ぶ。
今のミニョンに出来る事はそれだけしかない。
でも、そんな事しかできないで、もし、ユジンのいる場所がここじゃなかったら…、そう思うとミニョンは不安で胸が張り裂けそうだった。

と、その時、一番奥の部屋から物音がした。
ミニョンは呼ぶのを止めて耳を澄ます。
(かす)かな声。それは女性の押し殺したような嗚咽(おえつ)に似ていた。

「ユジン?」
その部屋には確かに人の気配があった。
でも、返事はない。
ミニョンはその事実に狼狽(ろうばい)して、闇雲(やみくも)に手を伸ばした。
「ユジン?どこ?」

ユジンはそんなミニョンの様子を、声を漏らさないように口を(ふさ)ぎながら見つめ、その手が伸ばされる度に指先から逃げていた。
だが、ともすれば涙でその姿は霞み、反応が鈍ったユジンはとうとう逃げ場を失った。

愛する人が目の前にいる。
だが、ユジンはその嬉しさと苦しみの挾間(はざま)に立っていた。

「それ以上、近づかないで!」
その声でミニョンはピタリと足を止め、顔を強張(こわば)らせる。
「ユジン…」
が、すぐに安堵の声でユジンの名前を呼んだ。

「大丈夫か?ケガはない?」
「…」
「どうした?」
「…」
「ユジン…?」
ミニョンは返事をしないユジンを気遣って、前に進もうとする。
すると、もう一度ユジンが声を上げた。
「来ないで!」

それは完全なる拒絶だった。
「…私は大丈夫です。だから行ってください」
振り絞るような声。
だが、ミニョンはその声に短く首を振る。
「そんな事は出来ないよ…」

「なぜです、イ理事。今までずっとあなたは私を避けてきたじゃないですか…」
ユジンの声は涙でかれていた。
その声を聞いて、ミニョンは黙ったまま一歩を踏み出す。
そして、両手を広げると、人の温もりが自分の体に感じられるまで、その歩みを止めようとはしなかった。

「恐かっただろう…」
ミニョンは木の上から落ちた飛べない(ひな)を抱くような慎重さで、震えるユジンを抱きしめた。
「もう、大丈夫だ」
途端にユジンは体中の力が抜けるのを感じた。

今まで自分は何度もこうして救われてきた。
高校生の時、山で迷ったときも。
サンヒョクの元から逃れたときも。
それ以外でも沢山…
いつでも、どんな時も、救ってくれたのは彼だった。

どうして…優しくするの…
そんな優しさは罪でしかないのに…
ユジンはミニョンの肩に頭をもたせかけて、声にならない声で呟いた。