ポラリス 【2】




「この部屋の患者は重病人じゃないって聞いて来たんだけど、そうでもないみたいね。
ノックの音も聞こえないんじゃ、もう一度、精密検査受けた方がいいんじゃないの?」

ミニョンは突然聞こえだした人の声に驚いた顔をすると、反射的に声のする方を見た。
その顔を見て再び扉の近くで声がする。
「あら、今度は聞こえたようね…、良かったわ」
声の主はそう言うと、ミニョンの反応を楽しむように微笑んだ。
その期待通りに、ミニョンは顔を真っ直ぐ向けたまま眉根を寄せると名乗らない来客の声を記憶の中から探し始めた。
だが、それも束の間。ミニョンは感慨深げな顔をすると、小首を(かし)げながらたどり着いた答えを口にする。
「…チェリン?」

チェリンは名前を呼ばれると、ゆっくりとミニョンの元に歩み寄り「そうよ」と答えてから、その体をそっと抱きしめた。
「覚えていてくれてありがとう、ジュンサン」
チェリンは体を離すとお礼を言って、3年ぶりのミニョンの顔を間近で眺めた。
見えない相手をジロジロ眺めるのは決して気分の良い事ではなかったが、サンヒョクから話を聞いていたせいで、チェリンは目の前にいる彼が、ジュンサンなのかミニョンなのか見定めたい気持でいっぱいだった。
だが、その気持ちもすぐに軽い失望に変わる。
それはそうだ。普通のメガネが薄い色のサングラスに変わった位で、人間の内面の変化なんて分かるわけがない。

「あれからいろんな事があったはずなのに、外見は全然変わらないのね…。これじゃあユジンだって混乱するわ…」
ベットの横の椅子に座ると、チェリンはため息と共にミニョンと会った感想を素直に口にした。
その言葉でミニョンの様子がどう変わろうが知っちゃいない。そんな口ぶりだった。

「サンヒョクが…、あっ、サンヒョクは今、ユジンの方のお見舞いに行っているんだけど、あなたに会うのを今まで許してくれなくて…。
まったく失礼しちゃうわよ、私が話しに加わるとややこしくなるからダメだって言うの。時期を待てってそればかり。
でも、結局待っても同じじゃない。何の進展もなくて、その上2人とも病院に入院だなんて…。
で、どうせそうなら、私が間に割って入ってもいいと思って、こっそり来ちゃった。
今頃、サンヒョク慌ててるわよ、私がいないんで…」
そう言っていたずらっ子のような顔をするチェリンは昔のままだった。
だが、目は真剣にミニョンを捉え、観察を続けている。

「ところで…、この状況、これは何なの?
部屋をノックした音が耳に入らないほど気持ちここに有らずって人が、どうしてそう強情を張っているのか教えてもらいたいもんだわ…」
「強情?」
「そうよ、それも超が付くほどの強情よ。2人して煙に巻かれるまで気が付かなかった?」
ミニョンはそこまで聞くと憮然とした表情を浮かべ、唇の端に力を込めた。
もちろん、それはチェリンにもすぐに分かったが、そんなことはお構いなしに話は進む。

「そんな言葉で片づけられるほど簡単なことじゃない…と、でも言いたいのかしら?口がそんな風になってるところを見ると」
チェリンは更に続けた。
「でも、難しくしてるのはあなたでしょ。
だからあのジュンさんにだって期待させてしまう。しかもそれでユジンを更に傷つけて。
まさか…、あなた、それを逆手にとってユジンを遠ざけようとするつもりだったんじゃないでしょうね」
今まで我慢していたうっぷんを晴らすように、チェリンの口は止まらない。

「で、そんな気持ちでありながら、ユジンが危ういとなると助けに行く。
人に優しい本質はどちらの人格も持っていた…なんて言わないでね。
あなたは人に優しいんじゃなくて、ユジンに優しいのよ。
ユジンが大事なの、ユジンの為なら死んでもいいと思う位にね。
それはジュンサンだって、ミニョンだって変わらないはずでしょう。
2人ともユジンを愛していたんだから…、なのになぜユジンを拒絶するの?私には分からないわ」
チェリンは物事はシンプルに考えるのがベストだと常ひごろ思っていた。
そして自分が知っているジュンサンもミニョンもそうだったはずだ。
それがこんなにも自分の気持ちをこねくり回してしまうとは、彼が変わったとしたら目が見えない事じゃなく、目が見えない事を卑下(ひげ)する心の方だとチェリンは思った。

「今だって愛しているんでしょ、ユジンのこと。
なら、自分の気持ちに素直になればいいのよ。ただそれだけ。他の事は後でいいじゃない。それに…」そこまであっけらかんとした口調で話していたチェリンはそこで一息入れると、努めて優し声で「私達がいるのを忘れないで」と付け足した。
「私達も手を貸すわ。だから1人で何もかもしようだなんて考えないで…」

それは目が見えなくても1人で仕事をどんどんこなすミニョンではなく、ジュンサンに向けて話すチェリンの言葉だった。
目が見えないことを恐れ、不器用な自分をさらけ出す事を恐れ、そんな自分を閉じこめてしまったジュンサンが聞いてくれるように願って言ったチェリンの言葉だった。

「今度は私が背中を押してあげるからね…」
その呟きははたして彼に聞こえたのだろうか?
ミニョンはピクリともしないまま、ただ視線を空に漂わせていた。