運命の輪 【1】
約束の時間まで後5分。
今日は遅刻できないわ。
遅刻魔のユジンも、今日ばかりは時間を気にせずにはいられないようだ。
そろそろ表に出ていようか…。
春の優しい風にも少し吹かれたい。
ユジンは、今まで眺めていた友人達の写真を手帳に挟むと、テーブルの上の部屋の鍵を手にした。
ジンスクとヨングクの愛娘のジヒョンはどんなに可愛いだろう。
サンヒョクとチェリンも変わりないだろうか?
ユジンがそんな事を思いながら歩道に立っていると、派手な車が横を通り過ぎた。
こんな車に誰が乗るのだろう?
そう思っていると、それはシックな黒で服装をまとめていたユジンの少し先で止まり、そして不意にバックして、ユジンの横でピタリと止まった。
ユジンは怪訝な顔で、その様子を見ている。
「ユジン!」
開けられた窓から自分のことを呼ぶ声がすると、ユジンは後ずさりしそうな体勢のまま、声のする方に目を凝らした。
「サンヒョク!!」
確かにそこにはサンヒョクがいた。
しかも、シートベルトを外すのに手間取って、バタバタとしている。
それでも、なんとかベルトを外すと、サンヒョクは咳払いをしながら車から下りてきた。
ユジンはその姿を見ながら、何かを必死に堪えるように、口元を押さえている。
「ユジン、お帰り。どう久しぶりの韓国は、昨日の電話の声からすると、もうだいぶ落ち着いたようだけど…」
「…」
「ユジン?」
「あぁ、もうだめ、サンヒョク、どーしたの?この車?もう可笑しくて…」
ユジンはプッっと吹き出すと、そのまま笑い転げていた。
「なんだ、笑いうなよ。待ちに待ったユジンの帰国だから、無理言って、せっかくユ先輩に借りてきたのに。お祝い事なんだから、真っ赤なスポーツカーなら、相応しいだろうと思ってさ」
「それって、私がおめでたいって事なの?」
ユジンはまだ笑っている。
「ああ、そうだよ」
ユジンに笑われて、口を尖らせたままだったサンヒョクは、やっと反撃が出来る嬉しさからか、そう答えるとニヤリと笑った。
「じゃあ、そのメガネも車に合わせたの?」
「そりゃあ、もちろん」
サンヒョクの返事に、2人は顔を見合わせた。
すると、今度は自然に柔らかな笑みがお互いにこぼれる。
最後に、顔を見て笑い合ったのはどの位前だっただろう…
そんなことが懐かしくなるような再会を、サンヒョクとユジンは高校生のような屈託のない笑顔で祝っていた。
「イ理事、本当にここで待っていればいいんですか?」
「はい、そうして下さい。僕、ちょっとこの辺りを歩いて、ここの空気を吸いたいんです。この歩道を真っ直ぐ歩いて、そして帰って来ますから、少しの間待っていて下さい」
「でも、理事、見えないのに大丈夫ですか?」
「この辺りの地理はよく分かっていますから、それに人影くらいは判別出来るし、耳は先輩より良いくらいです」
「はいはい、確かに理事の方が耳は良さそうだ。じゃあ、気をつけて」
ミニョンは車のドアを開けると、足元を確かめながら車を降り、歩道の段差をキム次長に教えてもらいながら上がると、真っ直ぐに歩き出した。
街路樹の間から零れる光が、時々チラチラと目に入り、見えない瞳にそれでも少し変化をつけてくれる。
春の風が気持ちいい。
ミニョンは何度も自分が通ったこの道に、会いたかった。
そうして、この道の先のアパートに住んでた彼女の事を、今こうしながら、思う存分思い出したかった。
今、幸せにしているだろうか…
この3年、片時も忘れる事のなかった彼女。
どこにいるのかさえ分からない彼女。
その痕跡はもう、ここにしかない。
「ジヒョン、こっち、こっち」
「ジヒョン、危ないわよ」
パタパタと走る小さな子供の足音と、それを呼んでいるだろう男女の声。
その音にミニョンは歩みを止めた。
車の通らない大通りでの声は響く。
あの呼ぶ声は、親だろうか?
子供の泣き声に反応したミニョンは、注意深くその声を聞いた。
もし、違うようなら、戻ってキム次長を呼ばなければならないからだ。
「ジヒョンどうしたの?」
「泣かないで」
この声は…
ミニョンは全身に鳥肌が立つのを感じた。
この声には聞き覚えがある…
そう、その声はミニョンにとって忘れることが出来ない声だった。
ミニョンの瞳に、懐かしさの涙が溢れる。
でも、自分は、ここから一歩も歩けない。
もう、あの中に、踏み込む事は、自分には出来ない。
それはここに来る前から分かっていた事だ。
ミニョンは遠ざかっていく賑やかな声に背を向けると、元来た道を戻り始めた。
今、君は幸せなんだね、ユジン…
サンヒョクと幸せに…
もう、これで思い残すことは何もない。
逢えなくても…君が幸せなら、それで僕は救われる。
それが分かって、本当に良かった。
ミニョンは歩きながら、カン・ジュンサンをその場に置き、そっとそれにさよならをした。
それは、これから米国で新しい人生を歩く為に必要な儀式だった。
ユジンに別れを告げる儀式だった。
そう、ユジンの愛したカン・ジュンサンは、この時消えたのだ。
永久に…
彼自身の手で消し去ってしまった…