運命の輪 【4】
「海が近い場所に建てて下さい」
それが、僕がキム次長に唯一出した条件だった。
潮騒が聞こえ、海の香りがする場所で、あの家に包まれたい…
そして、あの海辺で過ごした数日と同じような幸せを感じたい…
それが願いだったから…
その願いが今、現実となって、僕の手と足の感触の中にある。
あの夜、徹夜して書いた家の立体図を頭の中心に置きながら、僕は見えない目を消して、全ての神経を身体の末端に集中させた。
足の裏から伝わる床材の滑らかさや、掌から感じる壁の凹凸。
それらは触れるたびに、僕の一部になって呼吸を始める。
確か、この先の壁の突き当たりの右側はテラス…
それが分かると、僕は壁から手を離し、息づき始めた家の中を、その壁に向かってゆっくりと歩き出した。
すると、探るように差し出した手が、思ったように壁に突き当たる。
自然に零れる笑み。
キム次長を疑うわけではないが、それでも、自分の想像通りに出来上がっている家を、こうやって確かめる作業は楽しい。
今度は、その壁を触りながら右を向く。
と、その手に壁ではない何かが触れた。
これは…?
何だろうと思いながら、丹念に指先で触れてみると、その手触りで、それがキム次長の言っていたプレゼントであることに気が付いた。
「また、やってるんですか?」
そうキム次長に呆れられながら、マルシアンの部屋で埋めていたパズル。
僕の好きな物…
確かに…そうだった。
仕事で疲れた頭を解放して、無心でピースを埋める時、僕は徐々に形を作っていくその作業に夢中になった。
自分では、何もかも忘れていくその時間が大切に思えたのに、本当は何もかも忘れていたのは僕の方で、パズルのピースをはめながら、僕は本当は思い出さなければいけなかったのに…。
僕は自分が2度と作れないであろうそれを、懐かしさを確かめるように、もう一度なぞってみた。
もちろん、眉根を寄せて、これを作ったキム次長の事も思ってだ。
と、その時、指先が小さな突起に触れ、剥がれ落ちたパズルのピースが指の間をすり抜けた気がして、僕は慌てて床を探した。
が、その小さな片は見つからない。
僕はしばらくして、探すことを諦めた。
僕には探せない事が分かったからだ。
それに、このピースは僕にはめられたくなくて逃げたのかもしれない。
そう言えば、昔、マルシアンで作ったジグソーパズルも1つ欠けていたのに、知らない間にちゃんと埋まっていた事があった。
あの時も、最後まで誰がやったのか分からなかったけれど、でも誰がはめ込んだって、それが出来てしまえば、問題があるわけでもない。
きっと、このピースも誰か、はめ込んでもらいたい人が他にいるのだろう。
その時を、ここで待つ。
それも、いいじゃないか。
僕は立ち上がると、再び手探りでテラスにあるはずの椅子を探し、テーブルの上にと頼んでおいたコーヒーを飲んだ。
目の前が海だけあって、此処に居ると、そのコーヒーの匂いが飛んでしまうほどの潮の香りがする。
その香りと、此処まで来れた感慨が、少しだけ、僕をセンチメンタルな気分に誘いそうになる。
が、後1時間もすれば、迎えが来る筈だ。
そうすれば、この家ともしばらく別れなければならない。
僕は、コーヒーを飲み終えると、その気持ちを抑え、今度はもっと慎重に手足を滑らせて、家の中を見て回った。
そして、一番最後に庭に出て家の外壁に触れ、ユジンの設計した家の全てを、自分の感覚の中に納めた。
「白いバラよ」
不意にその声が聞こえたのは、その最後の庭先の事だった。
僕の和らいだ指が花に触れると、ユジンの声がしたのだ。
花…
そうか、あれはまだ高校生の時、「好きな花は?」と聞いた僕に、ユジンが嬉しそうに答えたあの声だ。
僕はそれで、ここがユジンの家だという確信が持てた。
だからだろうか、僕は、最初に上った階段に腰掛けると、思わず振り返り、声を掛けた。
「どう、気に入った?」
その声が、僕の胸の中にいるユジンにしか届かない事が分かっていても、僕は聞かずにはいられなかった。
ユジンが設計して、僕が建てた初めての家。
愛する人の心が一番素敵な家だと話してくれた、あの雪の日は、もう戻ることはないけれど、それでも僕はその愛を今、形に出来た喜びを伝えたかった。
―――
海に浮かぶ島だなんて…
ユジンはフェリーから降りると、もう一度ジョンアが調べてくれた住所を、ポケットから出して確かめた。
何度見てもそれは間違いではない。
どうして此処なんだろう?
ユジンは船着き場で教えてもらった道を歩きながら、世間と少しかけ離れたこの孤島に、ジュンサンが何故あの家を建てたのか考えてみた。
春の日差しが優しい影を落とす木漏れ日の中を、潮の香りに包まれながら、ユジンはゆっくりと思いを巡らす。
そうして、一歩、一歩、ユジンは足を運びながら、自分が今進んでいる道が、段々とこの世の物とは思えなくなっていた。
そして、それは、小高い丘の上で目の前の視界が開かれた時、現実になった。
綺麗に整理された庭の奥にある白くて大きな家、その向こうに青い海。
それは美しい夢の中にある風景だった。
そうか…夢なんだ…
ユジンは家に続く階段を下りながら、心の中で呟いた。
あの家は現実にはない、私の夢、そして、きっとジュンサンにとっても自分の夢の中に取っておきたい家なのだ。
程なく家の前に着いたユジンは、感慨深げに家全体を見上げると、懐かしそうにその門に手を掛けた。
心なしか指先が震えているが、それは緊張のせいだろう。
だが、その緊張も、一歩中に足を踏み入れたとたんに、波が引くように消えていた。
床も壁も、自分の想像以上に出来上がっていたからだ。
その懐かしさえ感じてしまう出来に、ユジンは感謝したい気持ちを溢れさせた。
ここも、あそこも、設計図通り…
と、その巡らせていた視線をユジンはある一点に留めると、そこに吸い寄せられるように近づいた。
やっぱり彼だった…
その視線の先の壁に掛けられたジグソーパズルが、この家の主を教えてくれていたのだ。
ジュンサン…
ユジンはそっと胸の中で呼んでみた。
するとジュンサンからの返事があった。
パズルが1ピース欠けていたのだ。
それを見つけた時、ユジンはそれがジュンサンの返事だと思った。
今度も同じように完成させてくれないか?
それは、まるでそう言われているように思えてならなかった。
ユジンは下を向くと、落ちていたピースを拾い、それをしっかりとはめ込んだ。
そう、あの時と同じように…
―――
やはり、どこか気もそぞろだったんだ。
忘れ物をするなんて…
カートに乗ったジュンサンは、自分のらしからぬ行動に苦笑した。
でも、もう一度あの家に入れると思うと、その忘れ物もさほど苦にはならなかった。
可哀想なのは、何度も家と船着き場の間を運転しなければならない管理人の方だ。
ジュンサンは管理人に感謝しつつ、あの家に向かうドライブを楽しんだ。
「僕が自分で取りに行って来ますから…」
ジュンサンはカートを降りると、取りに行ってくれるという管理人を残して、再び門をくぐった。
2回目ともなると、足取りも先ほどとは違って、余裕がある。
最初の角を曲がって、そして2つめ、キム次長のプレゼントがある壁は、この先で…
その時、無人であるはずの家の中で音がした。
人がテーブルにぶつかる音?
確かにそんな音がした。
「どなた…ですか…?」
僕は音がした方向に顔を向けて、聞いてみた。
だが返事はない。
でも、今の音は聞き間違えでは無かったはず。
僕はもう一度聞いてみた。
「どなたですか…?」
失明してから、僕は感が良くなったと皆から言われていた。
その感を信じるならば、確かに誰かが僕の前には居るはずだ。
では、何故、何も言わないのだろう?
泥棒なら逃げるだろうし、それとも言えない訳があるのだろうか?
言えない…
まさか…
そんなはずがあるわけがない…
でも…
「ユジン…なの…?」
僕は恐る恐る声を出した。
先ほどまで、ユジンを思い、ユジンと一緒に居た気持ちでいたからか、そう呼んだだけで息が詰まりそうだったが、でもそれでも呼びたい名前は1つだけだった。
「ジュンサン…なの…?」
それは返ってくることのない返事の筈だった。
ユジンの声が僕を呼ぶなんて…あり得ない事だ。
でも、どう考えても、その声の主はユジンだった…
「ユジン…」
僕は再びそう呼んでから、溢れ出る涙を拭いもせず、立ちつくしていた。
同じように、ユジンが涙を溢れさせているのを知らないまま…