約束 《3》


「待って!」
そう声を発しそうになって僕は目が覚めた。

窓からの月明かりだけでは、ここがどこか容易に判断出来ないほど、僕の気は動転していた。
目を凝らして自分の部屋であることが確認できると、いくらかほっとしたがそれでも息が苦しい。
幸い僕の隣で眠る楓は寝返りを打っただけで、起きる気配がない。
それを確認してベットの上でしばらく呼吸を整えると、台所に向かった。
冷蔵庫から冷えたミネラルウォ−タ−を出し、ゴクリと飲み干すと生き返った心地がする。

「『この子をお願いします』これだけしか持ってないよ、この子」
その声で顔を上げると、大人達が僕を取り巻いていた。
僕のポケットに入っていた紙を見つけて、呆れたようにそう言っている。

「手に持っているのは旅行会社のパンフレットじゃない?」
誰かがそう言って僕の手をこじ開けようとする。
僕の小さな手はそれを離すまいと力を入れたが、所詮大人にはかなわない。
「やっぱりそうだわ」
「じゃあ、この子のお母さんは今頃は空のかなたって事?」
「たぶん男でも追っかけて行いったんじゃないの・・、子供は邪魔で置いてったってとこかしら・・」
「まあ、それじゃこの子は捨てられたの、かわいそうに・・」

「僕、自分の名前は言える?」
今まで黙っていた男の人が、身をかがめて僕の顔を見るとニコッとした。
「り・・ゅ」
「りゅ?」
「りゅ・・う」
「りゅう、りゅう君か・・いい名前だね」
「りゅう君は、今日からここの子だよ、いいね」
その人はそう言うと、ゴツゴツした大きな手で僕の頭を撫でた。
「強い子になろうな、りゅう。そうだ名前は漢字の《龍》にしよう、強くてカッコイイぞ」
そう言って大きな手は、もう一度僕の頭を撫でた。

ぼんやりした頭で「捨てられた」と言う文字を繰り返す。
本当に僕は捨てられたのか?
少なくともこの場面の少し前に母はこの場所にいたはずだ。
母に会いたい。
真実が知りたい。
そう強く願うとぼんやりと髪の短い女性が見えた。

その人は僕の手から何か紙を取ろうとしていた。
でも僕が泣いて離そうとしないので、諦めたその哀しそうな笑顔。
これは旅行会社のパンフレット。
そうか、これが持っていたパンフレットだ。

「ここで待っていてね。すぐに戻って来るから・・」
『僕も行く。一緒に行く』
そう言いたいけど、言葉が口をついて出ない。
僕はまだ話すのがおぼつかないほど小さい。

「一目だけでも会いたいの・・、お母さんを許して・・」
『どこに行くの、お母さん』
お母さん?この人はお母さん・・?

僕をギュッと抱きしめるとその人はどんどん小さくなる。
『待って!』
小さな僕は駆け出した。
土の細長い道はでこぼこだらけで、小さな足はすぐにもつれて、僕は転んだ。
膝小僧が擦りむけてすぐに血が滲んできた。
「男の子は泣いたらいけない、我慢するのよ」
そういつも言っていた声が聞こえてきて、我慢したけど、涙はかってに溢れて来た。
膝小僧を押さえて、涙を拭うと、もう道の向こうに誰もいなかった。

僕は立ち上がって、大きな声を出そうと息を吸った。
でも吸っても、吸っても声が出ない。
小さな僕は焦るあまり息を吸うだけで、過呼吸になっていた。
息が苦しい。
「待って!」そう叫ばなければ母はいってしまう。

その瞬間、僕は目をさましたらしい。
台所の椅子に座って今見た夢を思い返す。
こんな夢は今まで見たことが無かったのに、どうして今頃見たのだろうか?

「ここで待っていてね。すぐに戻って来るから・・」
夢の中の母はそう言った。
すぐに戻るつもりでいたんだ、少なくとも夢の中では・・。

「一目だけでも会いたいの・・、お母さんを許して・・」
誰に会うために何処に行ったんだ、僕を残して・・。

夢と言ってしまえばそれまでだが、ただの夢にしてしまうには気持ちが乱れすぎていた。
このままこの夢を受け取ってしまえば、気持ちはいくらか楽になる。
少なくとも「捨てられた」から「待っていた」になる分だけでもいい。

「今日は約束の多い日だな・・」
ポツリと呟く。
そうこれは母との約束だ。
「待っていて・・」そう言った母との約束。
約束を思い出させる為に見た夢。
「待ってるよ、ずっと・・」
僕はここにいる。