私の毒舌日記(3)(目指せ、読者100万人)

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9/10(月) その2、下の続き

ということで、「M北のネット裏親父達」の話題を続けます。高校野球界に独自のネットワークを持つ身としては、何十年も前からささやかれたいたことは知っていました、しかし、見たのは初めてでした。あの人たちが、監督人事に口出しし、数人の監督の首を切り、宮北を長期低迷させた張本人なんだと感慨深いものがありました。さて、では彼らの正体は何なのか?要するに「野球は好きだ、見るのも好きだ、特にナマで見るのが大好きだ、しかし、高校野球くらいしか見るのがない。」という人々でしょう。僕が富士市長になる理由もそこにある。では、「選挙公約」というのをあげてみよう
   @ジャイヤンツ(どこでもいい)の2軍を富士に誘致し「大昭和ペーパーズ」と名前を変え、富士球場をホームとして独立採算のチームを作る。
   Aジャトコのサッカーを本格的に支援し、Jリーグに参加させる。そのホームは富士駅と新富士駅の間にある大昭和の土地、なぜ、野球チームを大昭和ペーパーズとするのか、がこの理由。変わりにこの土地を借りて富士スタジアムを作る
   BNPO組織を立ち上げ、富士川河口のグラウンドを中心とする富士南スポーツクラブ、富士球場を中心とする大渕スポーツクラブ、吉原小と富士体育館を中心とする吉原スポーツクラブなどの会員制クラブを軌道に乗せる
   C上のスポーツクラブの上部組織としてJリーグ加入のサッカーチームと、2軍でもいいからプロ野球チームを持つ楽しい都市に生まれ変わる
   Dこれが成功したら、バスケットボールのシャンソン化粧品も買収する。
   Eそして、全て「富士ペーパーズ」名前で統一し、トイレットペーパーを中心とした拡張販売路線を成功させる
   Fこうのような。都市になると自分の息子を富士市で育てたいと思う親が続出し、どんどん発展する。
 そうこれが僕の理想都市なのである。2児の親を持つ一人間としての実感であり、スポーツを愛する一人間としての実感であり、富士市民としての夢であると思う。いま、実は生徒に「お茶の教室の授業料」や「お花の月謝」や「書道の先生の月謝」などを取材している、要するにそれらの先生は年収いくらくらいなのかを知りたい。それで十分生活していけるのかを知りたい。もし、「長谷川健太サッカー塾」なるものが存在したら生徒はお月謝をどれくらい払えば、健太君は生活できるのだろうか、それが問題だ。この富士市構想の根幹は、富士市の会員制スポーツクラブの会費と月謝を毎月いくらにすれば採算がとれ、コーチが雇えるかにある。それはそうでしょう、小さい時からピアノを習い音楽大学まででて、今は町でピアノの先生などという人生が存在するなら、小さい時から野球を習い、プロ野球で活躍し今は少年チームの監督という人生も存在してもいいでしょう。いま、日本に新たな雇用を見つけるのならこのようにしてスポーツ選手の次の雇用を確保することが一番大切だと思うよ、だって子供たちに夢を与え続けるべきなのだから。 
 こうすれば、過剰な高校野球熱も吸収され、過剰な部活動も落ち着き(放課後は各地のスポーツクラブで汗をながす。)、非行もなくなる。なによりも富士市で子供を育てたいと思う親が増えるのではないかい?
 しかし、生まれながらに運動の才能がある奴は手厚く親から援助され花咲かせる道を模索できるのに、なぜ生まれながらに勉強の才能しかない奴はほっとかれるのかがわからん。でもこの富士市構想では、生まれながらに頭のいいやつを大切に育てることもちゃんと考えてます、そうそれが未来の「某F
高」  

9/10(月) ただ、久しぶりの更新なだけ(中身は濃いよ)

 ということで、おはようございます。昨日は早くから良く寝たので、早起きして、高原のボカジュニオルスでの初先発試合を見ていた。結局、何も活躍できないまま後半の30分くらいで交代。ああ、
 ちなみに、中田のパルマは引き分け、まだ、中田らしい活躍は今シーズンできていない。フェイエノールトの小野君は2アシストの大活躍、いいな。しかし、高原は三島市出身だし、小野は沼津今沢中だし、イギリスのポーツマスに移籍する川口君は富士市天間小の出身だし。やはり、静岡と言えばサッカーですね。
高原、小野、川口よ、君達は県民の誇りだよ。どうせ、となりの山梨はいま、果物の収穫で忙しいみたいなので、ついでに中田も名誉県民にしてあげよう。
 実は昨日、秋の高校野球秋季大会の決勝戦を観戦していた。僕は観戦、奥さんと子ども達は「応援」。決勝戦は富士宮東高と富士宮北高の対戦。知る人ぞ知る監督同級生思いでの甲子園対決なのでした。伊吹は、この頃F高ファンから宮東に乗り換えたようで、ラインナップを全部暗記していた。亜郎は、宮東を「みやとう」と読むのなら宮北は「みやほく」と読まなければおかしい、文句を言っていた、2人とも正しい。
 試合は結局9回の裏宮東の逆転サヨナラ勝ちで女房子供は狂喜乱舞していた。しかし、僕の一番の感想は「M北高校のネット裏親父のうるささ」である。高校野球通なら誰でも一度は耳にしたことのある、「宮北のネット裏連中」のことである。試合中も采配や生徒こと練習のことなどバンバン批判していた。あれでは、。贔屓のひきまわしでいい事は何一つないと思う。

9/6(木) 君達のハンドルネームに覚悟はできているのか
ということで、今日のお題は、名前について。掲示板に非常に多くの書き込みをいただき誠にありがとうございます。しかし、僕はそれを見るたびに笑ったり、怒ったり、首を傾げたりします。理由はすべて、あの楽しい匿名です。いまではそれをハンドルネームと呼ぶのをはじめて知りました。名指しで言うわけではありませんが、なんですかこの名づけ方は、君達は自分の匿名(もしくはニックネーム)にそれなりの覚悟があるのですか?その名前と一緒にこれから一生過ごしていく覚悟はできているのですか?そもそも自分の名前を振りかえって考えたことあがるのですか。少し、僕の経験と信念を話しておきましょう。
 そもそも、自分の名前は自分でつけられません。親が付けます。日本はほとんどが漢字でつけますので、名前には「ひひき」と「意味」が含まれます。そして、もちろん「民族の歴史」も含まれます。例えば「昭」という字がありますが、この字は昭和という元号が発表されるまで日本人がほとんど知らない漢字でした、「ショウといえば「照」しか思い浮かばなかったのです。でも、それに飽き足らない高尚な漢学者が古い古い中国の典籍を引っ張り出して「昭和」という言葉を発見しました。それからです、「昭」が名前の漢字に使われ出したのは。このように人の名前には、「民族の歴史」がいやおうなしに現れます。漢字を用いず、アルファベットだけで表すために、順列・組み合わせのでの絶対的な数が限られる西洋では、自然と名前が「民族の歴史」のみを表すようになっているのも、半ば当然です。日本の名前は「ひびき」「意味」「民族の歴史」「親の願い」これらが上手に内包されたものです。したがって、これを簡単にぶち壊すことはできません。
しかし、この名前は自分で付けることは不可能です、親が付けます。親の立場で言えばこの「名づける」という行為は自分の息子(娘)に対する最初で最後のわがままです。したがって、人間は一生「親のわがまま」を背負って生きていく非業の生き物です。僕は自分の息子に「亜郎」と「伊吹」と名づけました。もちろんそれなりの、確固たる信念がありますから、たとえ周りから「犬の名前」と言われようと平気です。
 しかし、人間が成長し大人びてくると自分の名前に少し嫌悪感を抱くのも事実です。少しかっこつけて名前以外で呼ばれたいと思うのも事実です。今の社会は匿名性が重視される社会でもありますから自ら「匿名」を名乗る都合もあるでしょう。それは否定できません。ならば、自分が生まれたときから様々な意味をこめられて名づけられたこの「名前」を超えて自分自身の手で自分を名づけるのですから、それなりに、もしくはそれ以上に「ひびき」や「意味」や「歴史」が含まれたニックネームを作るべきなのです。そして、そのニックネームと一緒に死ぬ覚悟までするべきです。できますか?
 僕のニックネームはTommyです。今から20年前、スパイとして国際政治の最前線で活躍する予定であった若き僕は、西洋人には「かずゆき」という発音が難しいだろうと思っていました。ですから、やはり西洋人にもすぐに受け入れられる名前がなければいけないと思っていました。しかも、スパイですから、わりと一般的な名前でないとすぐにばれてしまいます。そうして、自分は国際社会でどう呼ばれるべきかということで悩んでいるとき、ふと、テレビに映っていたのが、あのジョン・ウエィンでした。そうです。「正義は勝つ」という単純なアメリカ映画のメッセージを存在だけで具体化しているあのジョン・ウエィンでした。かれの映画の中で名前が「ジョン・ヘンリー・トーマス」、その略称が「トミー」だったのです。その時から僕は「トミー」という名前とともに生き、そして死ぬ覚悟をしました。スパイなら死ぬ覚悟があって当然です。以後、大学の英語の試験(もちろん、外国人が先生の場合のみ)では、トミーと名乗り、表札もTommyに変え、背広の中の刺繍にもトミーとつづり、サインも変えました。ですから、そのころは手紙でもトミーで届きました。当時の友人は今でもトミーとしか僕を言えません。今から10年前、結婚の為に指輪を買いましたが、普通はペアのイニシャルを裏に掘り込むそうですね。しかし、僕の指輪の裏にはTommyと彫ってあります。今後すべてのニックネームはトミーです。
 いいですか諸君,自分で自分を名づけるのなら、ここまでやりなさい。覚悟を決めなさい。もちろん、墓碑名には「通称 Tommy」と書くのです。遊び心で匿名を楽しんでいる諸君、君は間違っている。
 しかし、そのぶん匿名性はなくなります。当然です、それも覚悟しなさい。

9/3(月) 女のあぐらについて
 ということで、下の続きを書こう。とうとうこの読者も900人を突破した。キリ番号のゲットだけに命をかけている諸君、ここを読まずに立ち去るべからずだよ。
女性のあぐらがなぜいけないのかを科学的に分析する話だった。科学的と言っても自分で実験すれば良くわかる。あぐらという姿勢は、正座や横座りやあの女性だけにできる足もお尻もペッたっと床につけてすわる座り方(名前が判らない)に比べて、一番押し倒すのが簡単な座り方であるということだ。つまりは、世の中の男性と言う敵に対し一番無防備な座り方であるのだ。つまりは一番レイプされやすい座り方ともいえる。しかし、正座の女性を押し倒すのは実は難しい。これもやってみればわかる。したがって、花も恥らう淑女の皆さんがあぐらかくなんて言語道断、もってのほかである。
江戸時代に夜鷹という商売の女性がいた。今でいう街娼(たちんぼの売春婦)である、時代劇ではこの夜鷹の人は必ず道端にあぐらをかいて座っていた。それだけで、この身分の女性のあばずれ度がわかったってものだった。もう日本文化の中では、あぐらをかいて座る女は売春婦であるという定義が定着していたのである。この文化の掟をただ単に「あぐらは楽だから」とか「今日はGパンだからいいじゃん」という理由で見過ごしてはいけない。これからは、あぐらをかいて座っている女を見たら「1万円でどう」と声をかけよう。

 ところが、この「女のあぐら座り」という日本のタブーを大衆の面前で、こともあろうにテレビの画面上でやってしまった奴がいる。「梓みちよ」という20年位前に突然うれた歌手である。あの時は、うぶな男は驚愕したはずだ。女があんな格好でうたっていいのか、と。しかし、少し頭のいい男はすぐに了解した。「芸能界は夜鷹と同じ世界なんだ」と

9/3(月) 今日は内容充実
 ということで、昨日は見出しだけで終わった。書きたいことはいろいろあったが、筆が進まず途中で止めた。最近、掲示板の書きこみ欄が充実している。本当にかるた部関係の伝言板になってしまった。この書きこみ欄にFKSさんから投書があり、最近の毒舌日誌はなにも毒舌でなく且つ手抜きであるとたいへんなお叱りを受けた。すみません、とりあへず、謝ります。しかし、悩んでいていて筆が進まないのも事実なのだ。東京に出張でいった時、3.4人の大の大人の方から声をかけられた。「HPおもしろいね」と、これは嘘ではない、本当の話だ。いいいかね諸君、高校生ではないのだよ、大人だよ、社会人だよ。実はそれ以来悩みが続いている。この日記には、真面目に、真剣に、高貴な知識を得ようと毎日アクセスしてくる健気な社会人が大量に存在していらっしゃる(こういう場合の敬語の使い方が難しい)のだ。いくら毒舌日記といえどもいい加減なことは書けない。たとへば、某エスポットで、ローラーに棒がついていて、床でがろがろ動かすと腹筋が鍛えられるという器具を980円だからといって衝動買いしてしまい、夫婦揃って筋肉痛(それも腹筋だけ)で苦しんでいるなんていい加減なことは2度と書けない。
 ということで、2学期も無事に始まりめでたしめでたし。昨日、始業式ネタで書こうとしたのは、女性の胡座(あぐら)のことである。この頃の女子高生は平気であぐらをかく。スカートでも平気、パンツ見えるぞとみてもちゃんとハーフパンツなるものをはいている。これは富士高生といえども例外ではない。たぶん、女性はあぐらをかいてはいけない。と誰からも教わってこなかったからだろう。なぜ教えないのだ、「いけないから、いけない」とか「みっともないから」という理由で納得しないガキをだれが育てたんだ。
 はなしはそれるが、「ダメなものはダメ」とか「みっともない」とか「恥ずかしい」とか「はしたない」とかいう言葉そのものが「保守主義」を表している保守主義とは「世の中にはどうしても変えられない掟が存在し、人間はその掟に甘んじて生きていかねばならない」という生き方であって、この保守主義は高校時代までに徹底的に身につけさせられる。したがって高校時代までのテストの解答に正解がかるのが当たり前だし、制服があるのも当たり前だ、高校までが厳しいのも当然なことである。これが大学にはいるといきなり「リベラリズム」を教えられる。リベラリズムとは「この世界を人間の叡智で変えて行こう、必ず真理(理想世界)には行き届くはずだ」という生き方であって、この真理追究の姿勢は大学生になくてはならないものであり、結果的に社会は「大学のりベラリズム」を容認している。 
 もちろん、大学生になったら女でもあぐらをかいてよい、と言っているわけではない、この保守主義の立場で言えば「だめなものはだめ」なのだ。(この言葉、消費税導入のときに土井たかこが使ってから、品のない言葉になった)「恥ずかしい」し「はしたない」のだ。
 まだ、納得しないリベラリスト達がいる?ではあぐらがなぜいけないのか、科学的に説明しよう。と書いたところで、学校に行く時間なった。では続きを御楽しみに

 9/1(金) まずは、始業式が無事に済んだ。

9/1(金) 俺は待ってるぜ
ということで、今は9/1の朝5:58です。もう学校へ行く仕度をしています。6:30には学校に行かなくてはなりません。これは緊急連絡網召集訓練という立派な防災訓練です。学校に近い先生順に10名くらい集まります。「俺の目の黒いうちに一度は富士山大爆発か東海大地震が起きて欲しい」といってしまった手前、やはり、こういう訓練には協力します。我が家は、「軽い軽い、地震があっても大きく揺れるが絶対倒れないという構造」で安心なので、もし起きて見ろ、一番先に学校に駆けつけてやるぞ。