『読んだ中学生の感想が「こいつビビリすぎ!」でありますように』
text by TOM.F
初めて自分の文章がネットに乗るわけだけど、こういうのって良いのかなって、ちょっ
と思いながら書きました。
なーんて、俺なんかが文章を書こうと思うと、『これは自分の勝手な考えです。どうぞ
笑い飛ばしてください、たいしたこと書いていません』ってひとりでに予防線張っちゃう
んだよね。
大体「『責任』の二文字が一番嫌い」といってはばからない俺が『文責』なんて・・・
ネット上の責任ってどの位の人が意識して色んなものをアップしているんだろう?
自分が物創りを生業としているから、他の仕事をしている人たち以上に臆病になってい
るのかもしれないし、ただ単に俺が認識不足なだけで、ネットに何らかの作品であったり
思想を発表しようとしている人は、心配しなくてもきっちりと『受け手』を意識している
のかもしれない。
でも、こんな俺の無責任な考えが、誰かの頭の鍵穴にぴったりとはまって、何かのヒン
トになるかもしれないんだよね。いいほうに転がれば、何か大発見の手がかりになったり
とか、悪いほうに転がれば、連続殺人犯の心の支えになったりとか。
つまり、それなりの覚悟って必要だと思う。
作品を創って発表するってことは、すごく暴力的な行為だと思える。受け手側が情報を
選択すれば良いなんてただのたてまえ。商店街を歩けば否応なしに流行歌が耳に飛び込ん
でくる。その作り手のメッセージとは全く無関係に・・・たとえばそんな事。
突然だけど話は変わる。一応、『文責』背負ってるんだから、このくらいの我がままは
いいよね。
通常、テレビ番組が電波に乗って、ブラウン管に(最近は液晶か?)結像するまでには
企画会議、予算会議を通過し、現場の数々の打ち合わせを経て、多くのスタッフにより収
録され、テレビ局内で完成試写をする。最悪の場合、完成試写の場で『ダメ出し』、やり
直しを命ぜられる場合もある。
その場合、関係者は大変だ。責任者はスタッフには顔向けできない、現場の予算も残っ
ていない。もし責任の所在が個人にあればその人物は針のむしろだ。だからみんな自分達
の作品がどんなチェックにも通過するように厳しい目で審査する。常識人とか、善意の第
三者とか、さる事情通とか、見た事も会った事も無い人の目まで気にして。
ラジオも、映画も、ビデオも、雑誌も、おおよそメディアという言葉で語られるものは
多くのスタッフによって作られ、それより多くのチェックの目にさらされる。

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