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「知的障害者」の在宅福祉の向上に向けてと題して、一般質問を行います。 今から丁度20年前、国連で「国際障害者年」が決議された1981年当時はまだ「知的障害者」ではなく「精神薄弱者」と呼ばれておりました。なんとも侮蔑的(ぶべつ)な言い方で、よく「精薄者」などと略して言われることが多かったように思います。 今回、私の質問の中では、法や制度や一般的な概念にあわせる意味において便宜上「知的障害」という表現をさせていただきますが、この表現とても、はたして適切なものであるのかどうかはわかりません。 そもそも、この「知的障害」というものは人の「個性」ということに他なりません。私にも「個性」がある。そしてあなたにも「個性」がある。誰にでもあるその「個性」ですが、中には、その「個性」ゆえに、生きていくうえで「一定の困難」を伴ってしまうというものもあり得ます。「知的障害者」の場合、そのようなことになりることが多いと思われます。 この「一定の困難」というものは決して絶対的なものではなく、これを少しずつでも解消していくことができます。たとえば、自分で食事ができないのだったら誰かが介助をする、移動するのが困難なことであれば誰かが付きそう、ひいては働くことが困難なのであれば誰かがフォローをする、お金の管理が難しければ誰かがサポートをする、こういうことによってその人の一定の困難を取り除いていくことができる。 ですから、そのような「介助」「付き添い」「フォロー」「サポート」などが社会的なサービスとして提供されれば、その「障害」という個性に伴う一定の困難はかなりの部分、解消されていくことになります。家族が担うのではなく、社会的なサービスとして提供されるべきだと考えます。 加えて、「人が生きる」「暮らす」ということに於いては、当然、家庭生活、社会生活、あるいは趣味や生きがいの世界や文化生活、こうした各分野にまたがるのでありますから、こうした人の活動のすべての分野が介助やフォロー、サポートの対象となるものとして捉える必要があります。 たとえば、電車に乗って通勤をする。もし、その人が独りでは電車に乗ることができなかったり、仕事についても、一定の介助が必要ならば、これをサポートする人がいる。映画を見に行くとするならば、これに付き添う人が居て、チケットを買い、映画を鑑賞する。 このように、すべて人の活動分野が介助やサポートの対象となる筈であります。 しかしながら、「知的障害者」に対する介助やサポートの現状は、その対象をなる場所を「家の中」に限定をしてきましたし、家族が介護を行うことを第一とし、しかも「障害の重い人」に対してのみ行う、ということに終始してきた傾向があります。 実際、たとえば三島市でも、在宅の「知的障害者」に対しては外出や移動を介助する「ガイドヘルプサービス」はありません。あるのは「ホームヘルプサービス」だけ。という形です。しかも、これはホームヘルパーの派遣対象を「その家族が介護を行うことができないか、又は困難な状態にあるもの」に限定をし、さらには「重度の心身障害のため日常生活を営むのに著しく支障がある知的障害児者」に限定をしています。そして、その対象者が「家の中」にいることを前提とし、例外的に認めている外出への介助も「通院」に限られています。 曰く、「知的障害者の介護は保護者がやりなさい」「どうしてもできない場合に限ってヘルパーを派遣します」「でもこれも多くて週2〜3回です」「外出については通院だけは介助を認めます」ということであります。 在宅の知的障害者の介助は保護者だけが行うものなんでしょうか?そのことを当事者も保護者も望んでいるでしょうか?知的障害者は通院以外に外出をしてはいけないんでしょうか? やや極端な言い方かもしれませんが、そんな思いにかられます。こうしたなか、知的障害者の介護をいま、現に担っている保護者(この場合、親が圧倒的に多いと思いますが)、その親がとても高齢化をしてきている。というのが現状です。 多くの親は「我が子を残して自分が先に死ぬことはできない」「いま、自分が病気をする訳にもいかない」などの不安を背負って日々、過ごしていることが多いと言われます。私もこうした声に出会うことも何度かありますが、これも深刻な事態です。 しかし私はこうした保護者の不安の解消のために、と言うよりも、それ以前にその「知的障害者」自らがどういう暮らし方をするのかについて自分で決めていくという自己決定権。この自己決定権の尊重ないし保障のために何が必要か、ということに趣旨を置きたいと思います。場合によっては、この自己決定についても他人のサポートが必要なこともあり得ますし、そのような場合が多いとも思われます。 この「知的障害者の自己決定権の尊重」のためには、まずは、いろんなサービスがあってこれを選べる余地がある、そしてこれらを組み合わせればもっともっといろんなことができる・・ということがその前提となる筈です。そのために、何と言っても福祉サービスの種類・量ともに増えていかなければならないと考えますし、そのことを通じて、「知的障害者」が生きていく暮らしていくことに伴う「一定の困難」、先ほど述べましたところの「一定の困難」を解消していける、言い換えるならば、ノーマライゼーションの実現に近づいていくことができる、と考えます。 ところが、福祉サービスやサポートはまだまだ、種類、量ともに少なく、あまりに選択枝に乏しい現状にあると言わざるを得ません。小池市長はこうした点について、どのようにお考えでしょうか。まずお伺いいたします。 さて、2003年4月より、福祉サービスのあり方が大きく変わることになっております。それは「支援費制度への移行」と言われているものでありまして、いままで行政の措置によって展開されてきた福祉サービスが、利用者とサービス提供事業者との契約によって行われることとなっていきます。細かなことについては、未定の部分が多く、全体像がつかめません。しかしながら大枠は既に決まっています。 これまで、福祉サービスはおしなべて行政が決定し、すべてが行政責任のもとに、それが委託事業であっても基本的には行政の行為として行われてきました。今度は、利用者の選択のもとに自由に契約を行う、という仕組みとなり、その福祉サービスは行政の行為ではなくなります。繰り返しますと、「自由な選択のもとに契約を行う」のですから、その「自由な選択」の前提となるのはやはり、福祉サービスの種類や量が、たくさんある必要性が生じます。しかも、これは身近なところになければなりません。 この意味におきましても、町の中に利用しやすいサービスがたくさんある、そんな三島市にしていけなければならないことは、ますます求められているということとなります。 とは言え、この制度への移行は、「知的障害者」自身にとって、プラス面もあり、またマイナス面と言いますか心配される面もあると考えられます。また、後ほど自席から伺いたいと思いますが、ここではまず、「まちの中に利用しやすいサービスがたくさんある」そんな三島市にしていかねばならないと考えますが、市長、いかがでしょう。 続いて、こうした在宅福祉ということと密接な関係をもっています就労支援について、重ねてお伺いいたします。この9月は障害者の雇用促進月間となっておりますが、「知的障害者」の雇用ということについては、この折からの雇用情勢の悪化の中で、ひときわ厳しい状況にあると聞いています。しかし、それだからこそ、就労を支援するという大きな課題に立ち向かってほしいと考えるところであります。その現状や対策などについてお伺いいたします。 また、三島市自らが「知的障害者」を雇用し、民間に範を示す必要があるのではないかと考えます。市のさまざまな業務の中には、「知的障害者」が従事できるものも在るはずです。あるいはまた、市民文化会館の中に喫茶室がありますが、現在はその運営は委託されているものの、「知的障害者」の就労の場として考えていけないものでしょうか。いずれにしても、民間事業者に対し、その「雇用」をお願いしていくという取り組みの中では、それ以前に三島市自らの雇用ということが問われて当然であります。市長はどのようにお考えでしょうか。 以上、お伺いし壇上からの質問としたします。 |