一般質問を行います。 市民活動の促進と「小沢の里」の活用についてをお伺いいたします。 みなさん、「小沢の里」をご存じでしょうか。行ったことがお有りでしょうか。「小沢の里」と聞いても、あまりピンとこない方も多いかもしれません。追って述べてまいりたいと思います。 今回、私のこの質問は、この「小沢の里」、現状では発掘調査などで出土した埋蔵物などの文化財の保管庫として活用はされております。そのためにこの春から「立ち入り禁止」という看板が貼られています。私はこの「小沢の里」をもっと違う用途として、市民がひろく利用できるように、活かすことができるのではないか。たとえば、何らか、環境についての施策、何らか子どもの育ちや遊びについての施策、何らか、憩いの場であったり交流の場であったり、その用途は別としても、この「小沢の里」を愛する市民が、自らこれを活かしていく取り組みを促すような、そういうことをお考えになりませんか。という質問であります。 さて私は「小沢の里」を愛する者のひとりでありますが、簡単にその沿革を述べてみたいと思います。坂小学校の第2分校として、小沢の地に建設がされたのが昭和26年。1951年のことであります。そして、本校である坂小学校に統合されたのが昭和50年、1975年のことでありますから、この間の24年間、地域の子どもたちの「学舎」として存りました。 本校である坂小学校に統合され、小沢分校は廃校になってからその後、昭和62年まで、キャンプ場などの社会教育施設として「小沢の里」と名称を変え、しかし、昭和62年には現在の「箱根の里」が開設されたことに伴ってこの「小沢の里」は閉ざされました。そして平成に入り平成4年、1992年から現状のように埋蔵物の保管庫となっております。以来、現在に至っております。 私ごとで恐縮ですが、私は子どもの頃、三島市立南小学校に通っておりましたが、この頃、担任の先生のおとりはからいで、その先生が確か、この小沢分校に赴任してこともあってと記憶がありますが、坂小学校の子どもたちとかなり行き来したり、交流をしたりという覚えがあります。そのことが、少しずつ蘇ってくるのですが、たとえばソフトボールなどではほぼ互角であったことに対し、相撲になると坂の子のほうがぜんぜん強い。小沢分校出身の子がやたら強くて、体の小さかった私なんぞ、ただただはり倒されるのみでありました。この当時、「小沢分校」には何度か行ったことがあります。 その当時の校舎、運動場は、用途の変更に伴う形で多少の改修がされてきましたが、ほぼ、原形のまま残っております。とりわけ、「板張り」、焦げ茶色の外観の、その木造校舎は、風雨にさらされ、こげらなどの鳥に穴を空けられらがら、かなり傷んではいるものの、かつての学舎の、あの木のぬくもりを残した形となっています。言うまでもなく、たいへん自然環境の豊かななかに、、ある種、歴史の語り部のような雰囲気でひっそりとそこにあります。そんな「小沢の里」を愛する市民は、実はけっこう多いと伺っております。 このところ、こうしたかつての木造校舎が再び「価値あるもの」として見直されていますが、全国的にも、こうした木造校舎を保存し活用していこうとする動きは広まっております。 先ほど述べましたが、昭和26年に建築されたものがこのような形で残っているのは県内では、おそらく希だと思われます。この3月に、旧韮山町、現伊豆の国市にあります、韮山南小学校の高原分校が廃校になりましたが、この校舎は昭和51年の建築ですから、旧小沢分校よりもぜんぜん新しいものであります。私が調査したところ、東部教育事務所管内、この範囲で、かつての木造校舎が残っているのは、有名な岩科学校(旧松崎町)、これは国指定の文化財なのでまた別格の話ですが、これをのぞいて、この旧小沢分校ですとか、下田市の旧田牛小学校の校舎など、極めて少なくなっています。他は何らか改築されたり、また分校については廃校の後、取り壊されるなどの運命をたどっております。 先頃、旧韮山町の高原分校が廃止されたことについて、この生徒であったある大学生の方が廃校を惜しんで映画化に取り組んだ作品「花の声」の上映会が伊豆の国市で開催され、私も観にいってまいりました。在校した子どもたちや卒業生、そして地域のみなさん方も含め、会場は埋まっておりました。その学舎は、子どもたちひとりひとりの喜びや悲しみとともにあった。そして地域の暮らしとともにあったことがあらためて思い起こされているようでした。上映後、この分校を卒業したというの高校生らしきひとりが「ぼくはこの分校に通っているときは、こういう田舎の学校はいやで、やはく街の学校にいきたいと思っていたけど、いまはそんなことはなくて、この学校でほんとに良かったと思っている。」と感想を述べていました。学校の、規模が小さいがゆえの、その良さ、ある種の豊かさがあったことが推察され、きっと小沢分校もそうだったのだろうと私は思いを巡らせておりました。 このかつての学舎を、いま、再び何らか蘇らせることはできないのか。このことを考えるうえでまず必要なのは、埋蔵品保管庫として活用されている現状からして、この埋蔵品をどこか他の箇所に移さなければならない・・ということになります。 一面からすると、貴重な文化財である埋蔵品などの保管庫としてのあり方として、これは決して好ましい状態とは言えないと考えます。まず、出土品を活用するうえでも不便きわまりないと推察されます。せっかく保管してある土器や石器などの貴重な出土物も、結果として、誰の目にも殆ど触れることもなく、ずっとそこに有り続けるのみとという、とても残念な形にならざるを得ないのではないでしょうか。しかも、そういう意味ではたいへん老朽化している建物ですから地震などに対して、その安全性の問題からして、かなり難点があると思われます。 そこで、まずお伺いするのは、現状での「文化財の保管庫」としての機能については、これは他の場所に移す。このことにより、より適切な管理のあり方を目指すなどが求められると考えますが、そのお考えはないか、お伺いいたします。 そしてさらに改めて伺うのですが小沢の里のあり方として、現状の校舎など一定の補修が必要としても、できるだけありのままの形で、たとえば、環境教育の場や子どもたちの自由な遊び場、市民の憩いや交流スペースとしての活用など何らかより有効な活用についての考えを求めたいと考えます。いかがでしょうか。なお、小沢の里をこのようにより魅力的なエリアにしていくことについて、市民主体で取り組んでいけるような取り組みを期待したいと考えます。テーマはやや異なりますが、たとえば箱根の山を愛するみなさんが、行政をはじめとする関係者の協力を得ながら、間伐に取り組んでいるという、これはフォレストクラブの例、また、三島駅南口の清掃ボランティアなどの例、外にもいくつかあると思いますが、このように貴重な取り組みも出てまいりました。小沢の里についても同様に こうした市民の自発的な活動が繰り広げられる、それを視野に入れながらの市政の展開を期待したいと思いますが、いかがお考えでしょうか。 こうした点をお伺いし、第1回目の質問と致します。 |