天国と地獄 |
天井に取り付けられた、細長い四枚羽を持つ扇風機が規則正しく、緩やかに回る。 オレンジ色の間接照明は淡い光を投げかけ、生花が洒落た感じで周りを彩る。 かろん…。 透き通った一点の曇りも無い氷が音を立てて崩れ、 琥珀色の液体がゆっくりと陽炎のような淡い色のグラデーションをグラスの中に舞い上がらせる。 雰囲気は実に良い。実に良いのだが、それをぶち壊しているのは彼の連れにあった。 「なによー、ぜんっぜん進んでないじゃない!」 キン、キン、とまりなが指先でグラスを弾いた。 「私もう五杯目よ? 奢ってくれる人が全然飲んでくれないのなら、気が引けてじゃんじゃん頼めないじゃないの。 あ、すいませんロマネ・コンティをデキャンタで」 舌の根も乾かないうちに、まりなが遠慮なしに高いワインを頼む。 「勘弁してくれよ〜まりなくん。 奢るとは言ったけどねえ、もうちょっとこっちの懐具合を心配してくれても良いんじゃない?」 「何言ってるの、ボトルで頼まなかっただけでも随分遠慮してるわよ。あ、ありがとう」 デキャンタとワイングラスを目の前に置かれたまりなは、おもむろにデキャンタを持ち上げた。 ワイングラスには既に波々と満たされているのに、 何をするのだろうかと興味深く行き先を目で追っていた甲野の目が点になる。 「ちょっ、ちょっとまりなくん!?」 傾けられたデキャンタからは血のように赤いワインがどくどくと、 甲野の飲むウィスキーのグラスに当然の如く注がれた。 琥珀色をした液体が、深い銅色に、リトマス試験紙のように早変わりする。 「あ〜あ〜あ〜あ〜。どうしてくれるんだ、ぼくにこのブレンドを飲めというのかね?」 「あたりまえじゃない」 きっぱり告げられたそれに甲野が片手で顔を覆う。 「とほほほ」 「はいはいはい、じゃあかんぱーい!」 酔いどれ特有の朗らかな乾杯でちん、と甲野のグラスに軽くワイングラスをあてると、 まりなは景気よく細い喉に流し込む。 「もしかすると、わざわざあまり好きじゃないワインを頼んだのはこのためかい?」 「嫌いなわけじゃないわ。柄じゃないっていうだけ。 あ、そうそう、これが一番効果的だと思ったのよねー、どう? 私のオリジナルカクテルは?」 手酌でデキャンタからワインを注ぎ足したまりなはにんまりと悪魔の微笑を浮かべる。 八の字眉をして暫く唸っていた甲野は、一気にグラスの中身を飲み干した。 「きゃ〜、甲野本部長かっこいい! で、どう? お味は?」 「珍味だねぇ、これは」 複雑な顔をした甲野はうん、と頷く。 「そうそう、君もやってみれば〜? 普通のお酒に飽きた人にはぴったりだよ〜」 「遠慮しとくわ」 あっさりと断ったまりなは残りのワインをグラスに注ぎ込み、実にいい飲みっぷりでグラスを空けた。 「ぷは〜っつ、やっぱいいわねえ、ただ酒はっ!!」 「力説しないちょうだいよ〜。それにオジサン臭いよ、まりなくん」 「なによぅ、うるさいわね。いいじゃない〜。 んも〜また飲んでない〜。それはそうと、ねえ本部長」 「何だね?」 「今日はどうして奢ってくれるって言ったわけ?」 「それはだねえ、今回の任務を君が無事達成できたということだと言っただろう? これであの国の弱みはがっちり握っちゃったしねえ。上の方はホクホクらしいよ? それをネタに色々とこちらに有利な条件で条約を結ぼうという腹らしい。 まあ、わからんでもないがねえ、ぼくは好きになれないな」 まりなが暗い目をして俯く。 あの任務を受けたのもまりなであり、政府の望みの通りに解決したのもまりなだ。 しかし任務を達成した満足感はなく、苦い後味だけが残った事件だった。 彼女は何を考えてあんなことをしたのかしら? 理由も起こった経過も知っている。 しかし、彼女の中で何があって事を起こしたのかは、どうしても理解できなかった。 あ〜っ、もうっ、くよくよ悩んでるのは私らしくないわ! 潔く顔を上げたまりなの視線は、浮かない顔の甲野の横顔に向けられる。 ふ〜ん、あくまでもしらばっくれる気かしら? ばればれなのにねえ? 半分八つ当たりで目を半眼にしたまりなは、ちゃっかりと次に頼んだ日本酒を飲み干した。 「甲野すぅぁん」 どこぞの誰かの口調をそっくりと真似た、まりなの声に甲野は飛び上がる。 「ま、ま、ま、まりなくん、私には妻も愛人もって…………ふう」 らしくないため息をついて暗く視線を落とした甲野に、まりなは呆れたような目を向けた。 「任務達成半分、私用が半分といったところだったんでしょう?」 「きみには適わないねえ、みょーに聡いんだから」 「あたりまえよ。そうでなければこの世界で今まで生きて来れなかったわ」 突き刺さるような鋭い眼差しに、甲野は降参というように両手を挙げた。 「もうお酒がないねえ。あ、きみ、この女性にパーフェクト・レディを頼む」 パーフェクト・レディはドライジンをベースにした乳白色のカクテルであり、 大抵の女性はこれを頼むのに勇気を有するであろう自信家な名前のカクテルだ。 「あらあ、んもう照れちゃうわぁ」 「まりなく〜ん、上司の肩をぺしぺし叩かないでくれたまえ」 「じゃあねえ、私も本部長に今の気分にぴったりのを頼んであげるわ。 すみませ〜ん、この人にスーパーカミカゼをお願いします」 「ま、まりなくん!!!!」 とんでもない名前のカクテルの内情を知る甲野が、本気で目を剥く。 「本当によろしいのですか?」 引きつり笑いを顔に貼り付け、バーテンダーが真剣な顔でまりなに念を押す。 プロが聞き直すぐらい、はっきり言ってよっぽど酒に強い者でなければ、 即アルコール中毒、救急病院に直行のきつい酒だ。 「いいのいいの。それでお願い」 安請け合いをしたまりなに、甲野の顔が間接照明越しにも明らかに青褪める。 紙のように白くなった甲野に、まりなは肩を竦めて見せた。 「だって、酔わなければ話せない内容なんでしょ? あんまり飲みたい気分じゃないなら、手っ取り早く少量で酔えるものがいいじゃない」 「きみねえ、親切なんだか、ぼくを殺す気なんだか…」 二人の前に白いカクテルが静かに置かれる。 まりなの前にはシャンパングラスに注がれた乳白色のカクテル。 甲野の前にはオールドファッションド・グラスに注がれた半透明のカクテル。 まりなのカクテルはさほど強くはない。 問題の甲野のカクテルだが、 世界で一番強い酒、ウオッカのスピリタス(アルコール度数96%)をベースにした、 ひと舐めで二度と忘れられなくなるほど強烈な味、 グラス一杯で即天国、15分後には地獄に御招待される、とてつもなく強いカクテルだった。 はっきり言って、これを飲んだ者の命の保障は出来ない、凄まじく危険なカクテルだ。 意を決した甲野は、舐めるようにグラスに口をつける。 「く〜効くねぇ」 「んふふふふふ〜。それで?」 一口、恐る恐る飲んだ甲野は眉をしかめて、ポツリと言葉を零した。 「香川くんがね、結婚するんだそうだ」 「ふ〜ん、なんか人事っぽいわねえ」 「まあ、確かに彼女はぼくの愛人だよ? でも妻というわけではない。彼女も、こう言っては何だが、結構な年だからねえ。 結婚できる男に乗り換えてもぼくには文句は言えない。 ぼくの方は妻と別れるつもりはないんだからさ」 「で、愛人である本部長はどうするわけ?」 「どうもしないよぉ? する権利もないしねえ。 彼女には元からぼくとは別に、ちゃんとした彼氏もいたんだから、 彼氏の方からもうそろそろ結婚しようと言って来たら、うんと頷いて当然でしょ。 ぼくは祝福するだけだよ。式には欠席させてもらうがね」 「なんだかドライねえ」 甲野がグラスを弄び、中の液体を回す。からからと、透き通った氷の音があたりに散らばる。 「ぼくも最初からこうも悟りきっていたわけではないよ。 結局はこういう結論に行き着いたというわけだ」 「でも大人しく、理性のままに本能は言うことを聞いてくれない?」 「まあ、そういうことだね」 あっさりと認めた甲野は視線を泳がせた。 「それを聞いて欲しかったんでしょ? 夜は長いわ。 たっぷりこのまりなさんが聞いて慰めてあげようじゃないの。 すいませ〜ん、焼酎をボトルでお願いします」 「ま、まりなく〜ん、愚痴を聞いてくれるのは嬉しいんだけどねえ、もうちょっと、こう、控えめに…」 言っても無駄だと悟った甲野は、手の中の酒に口を付けた。 喉から胃へと、焼け付くような熱が伝い落ちる。 身体が沸騰するかと思うような凄まじい熱だ。 かっと喉元と酒を受け止めた胃が、ひりひりと火傷をしたようにひりつく痛みを覚えた。 明日に酒が残るほど酔ってしまって、愚痴を全て吐き出した方が楽だ。 本当は、全て割り切ったわけではない。 今でも引き止めようかどうか、悩んでいる。 目を閉じた甲野はゆっくりと飲み干してゆく。 天国と地獄はもう、目の前だった。 〜 数ヵ月後。 「本部長!! いったいこれはどういう…!! げげっ!?」 「あら、法条さん」 嫌味たっぷりの口調と、こちらへ振り返った姿はどう見ても。 「香川美純!!!」 「あなたに呼び捨てにされる謂れはないわ!!」 激昂する彼女に甲野がまあまあと仲裁に入る。 「あなた、寿退社したんじゃなかったの!?」 「まりなく〜ん、いまどき結婚=寿退社とは古いよぉ。それに彼女は」 「甲野さん」 ぴしゃりとした言葉と鋭い眼差しに甲野がぴたりと口を閉ざす。 いつもは甲野すぅぁん、っていう甘えた口調の癖に? はは〜ん。 考えられることはいくつかある。 その一、結婚は破談(ないし離婚)になった。 その二、結婚はしても、甲野との愛人関係は続けている。 その三、夫が亡くなって未亡人である。 その四、甲野との愛人関係は切れたが、相変わらず勤めているだけ。 三と四はちょっと論外よねえ。じゃないと面白くないもの。すると…。 「それでは、甲野すぅぁん、私、これで失礼しますわ」 ふん、とまりなをきつい目で睨み付け、 すたすたとドッペルゲンガーならぬ香川美純その人が、まりなの横をわざと肩をぶつけて通り過ぎてゆく。 にこやかに微笑を浮かべたまりなは、 甲高いハイヒールの音が完全に聞こえなくなると腕を組んで顎を上げた。 「ねえ、ちょっとこれってどういうわけ?」 「う〜ん? いやねえ、これは彼女のプライベートなわけであるからして、ぼくの口からはちょっとね」 「そんな言い訳が聞くと思うの?」 「聞くとも思わないが、どうしても知りたいというのなら彼女に聞いてちょうだい。 ぼくは知らないよぉ」 見ざる言わざる聞かざるを決め込んだ甲野に、まりなはしらけた爆笑を返答として。 本当、不毛な人達ねぇ? この落とし前はどうつけてもらおうかしら? 思ったことが顔に出たのか、甲野の額に汗が滲み、飄々とした笑いが引きつる。 物騒な笑みを浮かべたまりなは、じりじりと甲野へ近付いて行った。 END |
四方山話(言い訳) |
ふっ、念願達成の本部長です!! 一部、絶対出さないと豪語した人が出て来てますが… 彼女が出てこないと話が進まなかったので許してやってください。 本当は出したくなかったのに…しくしくしく。 最初の目論見は前編どうりで、本部長から引っぺがしてやるつもりだったのに、 彼女のパワーに跳ね飛ばされました。 悔しいい!! 今度こそ見てろよっ!!! それはともかく。 私の趣味、99%のうれしハズカシEVEオリジナル小説です。 もともとは、二人が会話の中で話している事件の方が本編でこれがエピローグになるはずだったのですが、 そっちがどうしても進まなくなったことと、主人公がまりなになったのでこちらを新たに書き直しました。 カクテルは、一応実在するものです。本部長にはマルガリータを飲まそうかと思いましたが、 カミカゼ、スーパーカミカゼを見つけてとたんに変更。 ちゃんと調べ直しましたがちょっと違うかもしれません。そのときはご容赦を。 |