弥生 |
「はい、桂木探偵事務所でございます」 春の陽射しがガラス越しで事務所の中に刺し込んで来る 冬の寒さが数週間前の過去のものとなり、季節が移った事を体で感じられるような午後 新たな命の芽生えと共に仕事にもヤル気を感じる者がいれば、 「春眠暁を覚えず」を全身で表現するかの如くうつらうつらと舟を漕ぐ者もいる 前者の例を挙げるならば、クライアントからの電話の応対にもはきはきと答えている所長代理 後者の例を挙げるならば、クライアントからの電話が来ようともすやすやと眠っている所長代理 殺伐としていて、それでいて喧騒の止む事の無い探偵事務所にも「春」の訪れを見る事が出来る、と言えばそうかもしれない 「・・・ええ、わかりました。では御都合の宜しい時間などをお聞きしたいのですが・・・」 受話器を片手にメモをとる弥生 メモをとりながら、向かいに見えるもう一人の所長代理の足の裏を幾分か目を細めて見つめている (目の前で私が仕事をしているのに、よくもまあ机に足を投げ出して寝る事が出来るな) と、細めた目は語っているようだ そんなことはお構いなしに寝息を立て続ける小次郎 彼の長い前髪でも流石に陽射しが眩しいのか、雑誌で顔を隠して暗黒の世界に身を委ねている 時折ニヤけた笑いを見せるのは、余程いい夢を見ている証拠だろう それが弥生には許せない。夢の中でまで他の女の事を・・・というのが一番の原因なのかもしれないが 「・・・はい。それではその時間に。お待ちしております」 受話器を置いて大きな溜息を一つ吐く 新しい仕事が入った事に気を引き締めているのが半分、目の前の「足の裏」に対する嘆きが半分 (まったく・・・) 髪をかきあげて新しいタバコに火を点ける 手帳に目を通して、クライアントと会う時間を裂いて、調査に当たる所員を検討して・・・ 「うへへへ・・・そこはダメだってばぁ・・・」 (・・・) 現在抱えている案件に当たっているのは彼と彼と・・・ こちらはもうすぐ片付きそうだから、そのまま次の調査に移ってもらうとするか・・・ 「バカだなぁ・・・おまえだけだって・・・」 (・・・フ) 一通りのスケジュールを組み立て終えて、もう一度タバコを吸う 先程までの眉間のシワは跡形も無く消え去っていた 目の前の、私だけの「足の裏」が、私だけに聞こえる小さな声で寝言を呟いている・・・ その姿が可愛らしくて、その寝言が嬉しくて笑みがこぼれたのかもしれない (夢の中でまで『おまえだけ』、か・・・昨日の晩も囁いたくせに) くすくす笑う弥生。今日の晩は久しぶりに料理を奮発しようかな、と色んなメニューを思い浮かべていたその時だった 「・・・積極的だなぁ、アケミちゃん・・・」 「ピシ」という音を発して空間に亀裂が入る、というのはまさにこの瞬間を言うのだろうか 弥生の顔からは見る見る笑みが消え、眉間のシワは再び復活・・・すらしない 先程までの「おまえだけ」の弥生は遥か彼方に消え失せて、いつもの所長代理に戻るのである 所長代理は只今怒っているようだ 目の前のもう一人の所長代理が、あろうことか就業時間中に居眠りをしている 彼女はこれを厳しく弾劾しなくてはならない 努めて冷静を装って、自分を客観的に見てまで、小次郎への込み上げる怒りを「正当なもの」へと置き換えようとする弥生 その弾劾の大元が聞いた事も無い女性の名前だったのでは他の所員にタダの痴話喧嘩と思われてしまう こんな時まで二人の関係を気遣わねばならない自分に少々溜息が出そうになる もっとも本当に「正当な弾劾」であっても、 他の所員、例えば自称「桂木探偵事務所・期待のホープ」などの目から見れば痴話喧嘩にしか映らないのだが 「小次郎」 (最初に発せられた言葉は低い声でした) と、後に「桂木探偵事務所名物・コピー男」と評された男は述懐する 「・・・小次郎」 一回目の返事に応じない彼に、暫く間を置いてもう一度話しかけた だが暗黒の世界で眠りに付く彼にその言葉は届かない 彼を起こす事が出来るのはお姫様のキスか、さもなくば得体の知らない嫉妬心に怒る女性の鉄拳か・・・ 無論「弾劾心」に燃える弥生が前者を選ぶはずもなく・・・ 「いい加減に・・・起きろーー!!」 このとき事務所にボクシングの解説者がいれば、この弾劾に燃える正義の鉄槌に正当な評価を下したかもしれない 『彼女は世界を狙える』と・・・ 小次郎を彼の幸せな夢の世界から (※正確に表現すると4日程前に指名したソー○ランドの女性との泡踊りの、限りなく実体験に基づいた夢) 一気に引き戻す強烈な右ストレートが、えぐりこむように炸裂する このとき小次郎が語った言葉は正確には記録されていない 一部の証言では『アケミ〜』と女性の名を叫んだだとか、『光りが・・・』と呟いたとか言われているが真偽の程はどうだろう? (ただ少なくとも『弥生』という言葉は聞こえませんでした) と、後に「桂木探偵事務所名物・コピー男」と評された男は述懐する その他の数々の証言もそれを裏付けている所から見て、『弥生』説は棄却することにしよう ・・・とにかく・・・ 小次郎は空を飛んだ。一瞬だったが彼の体は宙に浮いた 産まれてくるのがもう100年ほど前だったら、彼の滞空時間はライト兄弟の研究に多大な影響を与えたかもしれない 『ざっと5秒ってとこかな』 自称「桂木探偵事務所・期待のホープ」は、なぜかほくそ笑みながら、小次郎の滞空時間をそう証言した 『ボクの持つロレックス(※巻き舌で発音)の時計で測ったんだから間違いないよ』 ロレックスだろうが、セイコーだろうが5秒は5秒である。 が、この際重要なのは彼の時計のブランドではなく、時間にあることを勘違いしてはいけない ◆ ◆ ◆ さて、それまでの幸せな夢から例え様も無い激痛で現実世界に引き戻された小次郎は、 当然ながら事態が飲み込めていないようだ (ヤケに右の頬がジンジンするな) と、訳もわからず右頬を手で抑えてあたりをキョロキョロ伺っている 彼の記憶が正しければ、ここは4日程前に張り込み調査と称してくすねた料金で遊んだソー○ランド「シャングリラ」のはずだが・・・ しかし目の前には、その少しタレていた目が何とも言えず「ソソった」アケミちゃんではなく、 キツめの目を、更にこれ以上も無いほどキツくしてこちらを睨んでいる弥生の姿があった (しかも心なしか、弥生の拳から煙が出ているような・・・) と、思うのと同時に鼻から生暖かいモノが垂れてくる感触を感じる (やば・・・鼻からアレが出るようになるとは・・・オレの体も酷使し過ぎてそろそろヤバくなってきたか・・・) などと思ったのは、彼がソー○ランドの夢から完全に覚めていない事の証拠でもあると言える まさかと思い手を当てると、予想していた白色とは正反対の、真っ赤な、それはもう真っ赤な液体が目に付いた 赤い液体を見ると同時に、頬の激痛が思い出したように持ちあがってくる 鼻から流れる赤い液体、右頬の激痛、目の前の弥生の大魔神のような形相、そして弥生の右拳から立ち上がる煙・・・ 様々な証拠を、彼得意の推理力をフル回転させて検討した結果、(どうやらオレは弥生に殴られたようだ)という結論に達した (・・・達したはいいが、何故弥生に殴られなきゃならんのだ?) という思いも探偵なら当然浮かんでくる。 いや、探偵で無くてもこの事象と現実の意味する不可解さに疑問を抱かない人間はいないだろう 「やよい?」 「目は覚めたか?」 小次郎のなさけな〜い呼び声は、弥生の日本刀のように鋭利な言葉と目線で遮られた (・・・昨日の晩はもっと温かくて、うるうるした眼でオレを見てくれたのに) とは思うものの口が裂けてもそういうことは言えない 言えばおそらく昨晩交わした甘く、吐息の漏れるような口付けではなく、 今以上に冷徹な切れ味を持つ視線が返ってきそうだ、と本能が告げている (あり?けど昨晩は弥生と愛を確かめ合って、でも今さっきまで4日前のソー○ランドで愛を勉強していたわけで・・・ 何か、何か足りない・・・パズルを完成させるために必要な、最後の1ピースが・・・) その最後の1ピースを抱えた弥生が、美しいくらいのポーズで踵を返して再び机に座る 呆気に取られていた他の所員も、合図したかのように再び仕事に戻った 心なしか全員口数が減って仕事に集中しているようだ。そういう意味では所長代理の「弾劾」は非常に効果があったと言えるだろう その中でただ一人取り残される自称・天才探偵 (床から見上げる弥生の足はまた格別だな) などと先程の余韻に浸りながらも、とりあえず鼻血を止める為のティッシュに手を伸ばす 「痛い・・・」 昨晩弥生が呟いた言葉をもう一度繰り返すとはなんたる運命のイタズラだろうか が、昨晩のそれには例え様も無い愛しさと、だからこそ痛みを感じさせたい気持ちに駆られたものだが、 今のそれには例え様もない空しさと、だからこそ余計情けない気持ちしか感じないのは何故なんだろう・・・ (フ・・・天才探偵のオレにも分からないことがあるとはな・・・) 立ち上がって事務所のガラス越しに注ぐ陽射しに体を晒す 寒さが無くなり、温かさを伴うようになった三月の、弥生の陽射し (喧騒と人混みだけがこの街を彩るものだとばかり思っていたが・・・) 強い陽射しに目を細めながら遠くを見つめる自称・天才探偵 視線の先に映るのは喧騒と人混に彩られた世界か それとも、この陽射しの下で軽く微笑む愛しいアイツの姿か 答えは鼻にぎゅうぎゅう詰められたティッシュと、背後で季節を遡ったかのような冷気を発する弥生だけが知っている |
四方山話(言い訳) |
皆様毎度どうも。氷室バカtalkによる弥生セット一作目です。 今回かなり意識して「弥生モノを書こう」以上に 「いちゃいちゃしていないものを書こう」と意気込んで作成しました。 その結果がコレと言うわけで御座います。 ストーリーも何もあったものじゃございませんが、たまにはこういうのもいいかなぁ、なんて。 コピー男にセリフを言わせた、というだけで書いた本人としては満足であります。 読んで下さった皆様、「ああこのバカにはこんな風に見えるのね」と思ってくだされば幸いで御座います。 |